八月二十二日 水曜日

「うぅ……ん……はれ?」
 気が付くとそこは書斎だった。隣には先生が気持ちよさそうに眠っている。
 何で私……あ、そうか。
 ぼんやりと昨日の記憶が蘇る。
 私、泣き疲れていつの間にか寝ちゃったんだ。また先生に迷惑かけちゃった。
 自分が恥ずかしい。優しさに甘えてしまった自分が情けない。だけど、今はそれでもいいと思え始めていた。これが私なんだ。そう考えると、少しは楽になれた。
「先生、ありがとう」
 渚はそっと呟くと、冬馬にかかっている布団をかけ直し、書斎を出た。
 寝室で着替えを済ませてから顔を洗うと、生まれ変わったような気持ちになれた。
「がんばるから、ずっと見ててね、チー」
 割れたハートを握ると、元気が出てきた。
 味噌汁の支度も終え、何か他の家事でもしようかと思案していると、書斎の襖が開いた。
「おはよう」
「おはようございます、先生。今日はお早いですね」
「うん。昨日は早く寝たからな」
「あの、昨日はまた……」
「ああ、謝らなくてもいいよ。それより渚、もう大丈夫か?」
「はい。おかげ様でもう大丈夫です」
「それはよかった」
 本当に嬉しそうな先生を見ていると、心が体が熱くなった。
 ああ、私はなんて幸せ者なんだろう。こんなに親身になってくれている人がいる。好きになってよかった。好きになるべき人に好かれて、よかった。
「ありがとうございます。あの、ゴハン今すぐ作りますけど、食べますよね?」
「ああ、頼む。その前に麦茶をくれ」
「はい」
 渚は冬馬に麦茶を渡すと、すぐ朝食作りにとりかかった。
 朝食はすぐにできあがった。朝一番の食事はやはり和食。だけどちゃんと栄養のバランスは整っている。
「おっ、双子だ」
「ええ。先生の目玉焼きだけです。私、初めて見たので、朝から少しラッキーな気分です」
「俺もだ。いやー、珍しいな。でも、少し食いづらそうだな」
「でしたら私のと取り換えますか」
「やだ」
 先生、子供みたい。
「何かおかしい?」
「いえ、何も。そうそう、先生。先生はお酒の他にお好きなものは何かあります?」
「メイド」
「え、えっと……」
「聞こえなかったか? メ・イ・ドだ」
「……食べ物でお願いします」
「レバ刺しとマヨネーズだ」
「先生、マヨネーズがお好きなんですか」
「ああ。それに醤油と七味をかけて肴にして、一杯やるのがいいんだよ」
「またお酒ですか」
「でもマヨネーズは本当に好きなんだ。俺、一本全部飲めるぞ」
 うぅ〜、胸焼けしてきた。
「お体壊しますよ」
「俺の血液の半分はアルコールで、四分の一はマヨネーズで構成されているんだ」
「……」
「佐倉さんは何が好きなの?」
「私はイクラが好きです。あのプチプチした食感がたまらないんです」
「イクラは食えるけど、あまり好きじゃないな。ほら、何年か前に食中毒事件があったろ。あの時俺、当たったんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。だから好きじゃない」
 食事を終えると冬馬は書斎に、渚は洗い物にとりかかった。
「先生って、そんなにマヨネーズ好きなんだ」
 確かに私も嫌いじゃないけど、さすがに飲めないよ。先生って、変なとこもすごい。
「今日、何かマヨネーズを作ったお料理でも作ってみようかな」
 食器を洗い終えると渚は寝室の掃除を始め、リビング、台所、トイレなど各所を綺麗にしていった。
「うん、よしよし」
 一通り終えると次は洗濯。溜まった洗濯物を入れ、スイッチを押す。その間は暇なので、寝室から料理の本を持ち出し、勉強する。
 忙しいが張りのある生活。渚はメイドであることを充実した気分で実感していた。
 洗濯機が止まると洗濯物を取り出し、ベランダに干し始める。今日は少し量が多い。天気予報の通り、夜には雨が降るだろう。
「でも、乾くよね」
 洗濯物を乾かすにはまだ十分陽がある。渚は晴れやかに澄み渡った空に向かって大きく伸びをしてから、リビングへ戻った。
 さすがに少し疲れたので、昼食までの間、渚は寝室にこもり布団に背を凭れかける。
「疲れたけど、先生きっと喜ぶだろうな」
 その想いが、また活力を与える。誰かが気持ちよく過ごせるために自分がいる。何にも思われないかもしれないけど、少しの快適さを与えられるかもしれない。そう考えるだけで渚は嬉しかった。
 胸元からネックレスを取り出し、窓から差し込む陽にかざす。キラキラと光るそれを、渚は飽きることもなく眺めていた。
 ふと時計を見るともう十一時半。そろそろ昼食の支度をしようかと渚は寝室を出して書斎に入った。
「先生、お昼は何がいいですか?」
「昼メシか。正直まだあまり腹は減ってない」
「では一時頃にしますか」
「そうだな」
「何か召し上がりたいものはあります?」
「……まかせる。パン以外のもので何か」
「わかりました」
 書斎を出ると渚は小さく溜め息をついた。
「何にしようかな……?」
 とりあえず十二時半までの課題は決まった。渚は寝室に戻り、料理の本を開く。
「何にしようかなー……っと」
 どれも美味しそうで、目移りしてしまう。だけど作れそうなものになると、正直どれも自信が無い。
「あっ、これにしよう」
 その夏には牛そばのレシピが載っていた。作り方が簡単な上、とても美味しそうだ。
「でもおソバなんかあったかなぁ」
 台所へ行き、麺類をしまってある棚を覗いてみると、ちゃんとソバはあった。
 よかった。これで作れる。
 さっそく料理の本を開きながら作り始めた。
 先日のグラタンのこともあるので、きちんとレシピを確認しながら進めていく。
「えっと、次は醤油、みりん、塩を加えて」
 レシピには二人分で書かれているので、分量を計算することも無い。渚は少し楽しくなりながらソバを茹でる。
「よし、完成」
 見た目は写真と同じだった。渚は一頻り満足すると、書斎に入った。
「先生、ゴハンができましたよ」
「何作ったの?」
「おソバです」
「わかった。じゃ、食うか」
 テーブルの上にある牛ソバを見て、冬馬が渚と交互に見比べた。
「これ、何?」
「牛ソバです。牛肉の入ったつけ汁なんです」
「美味そうだな。どれ」
 冬馬は箸を取り、一口食べてみる。その様子を渚はじっと見詰めていた。
「うん、美味い」
「よかったー」
 渚は嬉しそうに胸の前で手を合わせる。
「ほら、渚も食えよ」
「はい、いただきます」
 うん、美味しい。これ、お姉ちゃん達にも食べさせたいくらい。
「しかし渚、がんばったな」
「えへへ、ありがとうございます。これでも先生のためにとお勉強したんですよ」
「はは、ありがとう」
 先生が笑顔で食べてくれる度、私の心は弾んでいく。やっぱり同じ食事でも、こうしてお互いにいい気持ちで食べた方がいいもんね。
「そう言えば先生って音楽聴かないんですね」
「いや、そうでもないよ」
「でも私、ここに来てから先生が音楽を聴いている姿、見たことありませんよ」
「だってあまり聴いてないもん」
「お嫌いなんですか?」
「好きだよ」
「では何で……?」
 冬馬は一口啜り、燕下してから口を開く。
「だってもし俺が好きな奴でも渚が嫌いだったら、腹立つだろ。だからかけないようにしていたんだ」
「そんな、先生、私に気を遣い過ぎですよ。私は別にそんなことで怒りませんよ」
「俺だったら苛々するけどな」
 気にしてくれるのは嬉しいけど、何だか私が先生の自由を奪ってるみたいで嫌だな。
「とにかく私は何とも思いませんから、先生はもっと好き勝手になさって下さい」
「そう。じゃ、そうさせてもらうかな」
 それから先生としばらくお互いの好きな歌手について話し合いながら、ゴハンを食べ終えた。幸いと言うか何と言うか、先生の好みで私の嫌いな歌手はいなかった。
 食事を終えると冬馬は書斎に入り、渚は洗い物にとりかかった。
 先生って気を遣い過ぎるくらいに私に接してくれるけど、過去にそんな嫌なことがあったのかなぁ。
 なんて邪推をしながら洗い物を終えると、書斎から先生が出てきた。
「ちょっと長田が来るまで散歩してくる」
「お気を付けて」
「ああ。じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 パタンとドアが閉まると、渚は大きく一つ深呼吸をした。
「先生、またお仕事詰まってるのかな?」
 しかし心配しても何もならない。渚は踵を返すとベランダに上がり、乾いた洗濯物を取り込み始めた。
 取り込んだ洗濯物にアイロンをかけ終え、久しぶりに風呂掃除をしようと意気込んでいると、突然電話が鳴り響いた。
 誰だろう……って、わかんないか。
「はい、北川です」
「こちら哲神メイド派遣所の久保と申す者ですが、佐倉渚はいますか?」
「メイド長?」
 えっ、何で……?
「ああ、渚ですか?」
「はい、そうです。渚です」
「元気にしていますか?」
「はい、とても元気です。お世話はたまに失敗してしまうこともあるんですが、とても優しい御主人様が笑って許してくれるんです」
「よい御主人様に巡り会えたようね」
「はい。御主人様は私の一番です。大好きなんです。毎日私も御主人様と共にがんばっています。お料理もたくさん覚えたんですよ」
「そう、それは何よりです」
「えへへ」
 何かもう、嬉しくて胸が弾んでどうしようもないよ。私、メイドでよかった。佐倉渚でよかった。
「ところでメイド長、お話とは近況報告だけでよろしいのですか?」
「いえ、まさか。実は渚に大事なことを伝えなければならないのです」
 大事なことって何だろう?
「よく聞きなさい渚、あなたの契約期間が決まりました」
「えっ?」
 忘れてた。私、ずっと先生といられるわけじゃなかったんだ……。
「渚がそこで働けるのは北川氏の小説が完成するまでの間です」
「小説が、完成するまでの間……」
「そうです。これは契約者である二階堂氏からのお達しです」
「……」
 完成って、もうすぐだよ。先生とお別れだなんて、そんなのやだよ。
 でも、私にはどうしようもない……。
「渚、聞いていますか?」
「はい。……承諾、しました」
 頭、真っ白で、何も考えられないよ。でも、そう言っておかないと……。私はメイドなんだから。
 しばしの沈黙、しかしそれも政代が破る。
「渚、良く聞きなさい。御主人様に仕える者ならば誰しも通る道です。出会ったその瞬間から精一杯の愛で接するのと同時に、別れの覚悟をするのもメイドです」
「……わかっています」
「辛いでしょうが、耐えるのです」
「大丈夫です、メイド長。私もこうしてメイドになれたのですから、その覚悟もあります。唐突でしたので、少し動揺しただけです。けど、もう大丈夫です」
 渚は笑顔でそう言いきった。
「その声を聞いて安心しました。それでは渚、がんばるのですよ」
「はい」
 受話器を置くと渚は天を仰いだ。
「先生と、お別れか……」
 契約だから仕方ない。そう、仕方のないことなんだ……。
 天井が歪む。
 恋人じゃなく、メイドだから仕方のないことなんだ……。
 そして景色が頬を伝い、流れる。
「先生とずっと一緒にいられないなんて、ここに来る時はわかっていたのに……」
 うつむくと、涙がとまらなくなった。
 割れたハートが、涙で濡れた。
 幾らかして冬馬が帰ってきた。涙がもう止まっていたが、冬馬と目を合わせられずに、渚は掃除を続けていた。
「何かあったの? 機嫌悪そうだけど」
「いえ、何でもないです」
「そ、じゃ、長田が来たら教えてくれ」
「はい」
 書斎の襖が閉まると、胸が切なさで苦しくなった。私は胸元からそっとネックレスを取り出し、握り締めた。
 三時頃、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「はーい」
 ぱたぱたと玄関へ大向き、ドアを開けると、思った通り長田がいた。
「こんにちは」
「どうも、こんにちは。先生はいますか?」
「書斎にいますよ。どうぞ」
「失礼します」
 長田を書斎へ通すと、渚は冷たい麦茶を届けた。そして打ち合わせの邪魔にならぬよう、早々に退室する。
「さて、私は私のお仕事」
 ともすれば萎えて立ち上がれなくなりそうな自分を何とか奮い立たせ、渚は風呂掃除に精を出す。
「がんばらなきゃ。私に残された時間はもう少ないんだから、疲れたなんて言ってられないよ」
 丁度風呂掃除を終えた頃、長田が頭を下げながら書斎から出てきた。
「長田さん、お帰りですか」
「ええ、打ち合わせも終わったもので」
「先生の小説は、いつ頃完成しそうですか?」
「今日明日にも終えられると言ってましたよ」
 今日明日……。
「長田さんから見て、今日の先生の作品はいかがです?」
「いいと思いますよ。多分、これなら先生もクビを切られずに済むでしょう」
「そうですか」
「では、お邪魔しました」
「いえ、何もおかまいできず」
 何度も頭を下げながら長田は帰っていった。
「そっか。先生の作品は大丈夫そうか。今日明日にも完成なんて……」
 涙が滲みそうになったが、何とか笑顔でそれを堪える。
「先生、がんばったなぁ」
 それでも一筋、流れてしまった。
「失礼します」
「どうしたの?」
 冬馬は原稿用紙から目を離し、渚を見る。
「これからお買い物に行きますけど、何か必要なものはありますか?」
「……特に無い」
「そうですか。ではいってきますね」
「いってらっしゃい」
 書斎を出てふと思った。あと何回この言葉を聞けるのだろうと。
 ううん、そんな考えダメだよ。私らしくもない。残された時間は確かに短いけれども、残せる時間にはできる筈だよ。
 渚は支度をすると、外へ出た。
 朝に比べれば大分量が増えていたが、まだ降るまでには至りそうもない。燦々と輝く日も夏らしくていいが、時にはこうして涼しい日もいい。渚は空を見上げ、溜め息をついた。
「お天気悪いと、何か考え込んじゃう。今は晴れてて欲しかったな」
 どうしても別れが頭にチラつく。その時を考えてしまう。
「覚悟、か……」
 とっくに決めていたつもりだった。先生のとこに派遣されて、何度も決めてきた。そしていつも、それを確かなものとして認めてこれた。
 けれど今回は少し違う。今までは捨てられないための覚悟。今回は別離のための覚悟。どの覚悟よりも、辛い。
「折角先生と、色んな人達と仲良くなれたのになぁ」
 溜め息ばかりが出る。困ったものだ。
「できるなら、もっといたいな」
 切ない風が頬を掠めた。
 商店街に着き、各商店を回る。夕食は何にしようかと迷いながらもできあがりの餃子を買ったところで、不意に背後から声をかけられた。
「新堂さん、こんにちは」
「こんにちは」
 そのまま新堂は渚の顔を見詰める。
「あの、どうかしましたか?」
「いや、何だか今日は渚さんは少し顔色が悪いなぁと思って」
「そ、そんなこと無いですよ」
「ふむ。だけどそうは見えないんだよねぇ。何だかまた、大きな悩みを抱えているみたいなんだけどなぁ」
 新堂さん、鋭い。
「あの、お買い物もうすぐ終わるので、少し待ってもらえませんか。お話はその後で」
「ああ、これはすまない」
 買い物を終えると渚は新堂と共に公園へと向かった。立ち話も何なので、少し落ち着ける場所で話したかったと言うのは渚の意見。
 二人は公園に着くとベンチに腰掛けた。
「それで、一体どうしたんだい?」
「……実は私、数日中にでもここを去らなければならなくなったんです」
「随分急な話だねぇ」
「ええ。私も今日それを伝えられたんです。だからもう、どうしていいかわかんなくなってしまって……」
「大変だねぇ、メイドさんも」
 二人同時に溜め息が出た。
「ようやくこの町や色んな人達を知ったと思ったら、これです。何だかもう切なくて」
「愛着ってのは、時に無情だねぇ」
「そうですね。ひどいです。でも、ここまで好きになれたことは後悔してません」
 新堂は何度も頷く。
「ですけど、やっぱり許されることならば、離れたくありません。ようやく好きになって、これからと言うところなのに……」
「そうだねぇ。私もようやく渚さんと知り合ったばかりなのに、やっぱり別れるとなると、寂しいねぇ」
 ゆっくりと新堂が空を見上げる。
「そろそろ雨が降りそうだね。でも私は傘を持ってないや。……まぁ、濡れてわかることもあるか」
 そのまま新堂は立ち上がり、
「それでは渚さん、お元気で」
 手を挙げ、振り向くことなく去って行った。
「……何が言いたかったんだろう?」
 傘が無いなら買えばいいのに。濡れたら風邪ひいちゃうよ。
「私も帰ろう」
 買い物袋を持ち、渚は歩き出した。
 帰宅する頃には五時半を少し回っていた。
「先生、お風呂はどうします?」
「沸かして」
 買い物袋の食材を冷蔵庫に入れると、渚は風呂場に入った。
 二十分程して風呂の用意ができると、渚は書斎の襖を開けた。
「先生、お風呂の用意が……」
 途端、渚は絶句した。笑顔が凍りつく。見ると冬馬が枕を抱きながら書斎を転がり回っていた。その冬馬も渚に気付くなり、動きを止め、凍りついた。
「……」
「……」
 見ちゃいけないもの、見ちゃったかな。
「あ、あの、お風呂の用意ができましたよ」
「ああ、わかった」
 すっくと冬馬は立ち上がるなり、何事も無かったように風呂の支度を始めた。その姿がおかしくて、いけないとは知りつつも、渚は肩を震わせながら書斎を出た。
 先生、何してたんだろう?
 思い出すと、もう一度笑えた。
 冬馬も渚も風呂から上がると、すぐに夕食となった。今晩は餃子に豚肉ともやしの味噌炒め、白菜のおひたしマヨネーズ和えに冷奴、そして味噌汁。
「今日もすごいな」
「いっぱい食べて下さいね」
「もちろん」
 よかった。先生喜んでくれてる。
「しかし渚もメシ作るの巧くなったよな」
「先生のおかげです」
「俺は何もしていないぞ」
「そんなこと無いですよ」
 渚はじっと冬馬の口元を見る。
「先生がこうして美味しそうに食べて下さるから、次も喜ばせたくて、がんばろうって思うんです」
「好循環だな」
「何です、それ?」
「いい巡りのことだよ。俺が美味いって食う、渚が喜んでがんばる、美味いメシができる、また俺が美味いと喜ぶ」
「えへへ、そうですね」
 でも、あと何回そうできるかな……。
「そうそう先生、お仕事順調みたいですね」
「ああ。この分だとがんばれば今日中にでも終わるかな」
「先生、がんばっていらっしゃったから」
「ま、渚のおかげでもある」
「私の?」
「ああ。渚が俺の身の回りのことをこなしてくれたから、集中できたんだ」
「そんな。私は何も」
「謙遜するなって。いや、でも誰のおかげってのも気が早いな。まだ完成していないのに」
「そうですね」
 夕食を終えると冬馬は執筆に、渚は洗い物にとりかかった。
「気が早いか。そうだよね」
 だけど私には時間が無い。もし今日完成したら明日明後日にでも出ていかなきゃならないんだもん。
 食器を拭きながら溜め息一つ。
「先生にどう言ったらいいんだろう。私、言える自信が無いよ……」
 片付けを終えると渚は書斎に入った。
 しかし二人の間に会話は無い。冬馬は黙々と書きいそしみ、渚はその姿を見守っている。だけど渚はその姿を嬉しい以上に、切なさを含んだ瞳で見ていた。
 もう、今日が最後かもしれないんだよね。
 昼間から何をしていてもそれが頭から離れない。先生を見る程に、感じる程に切なさがどうしようもない痛みを伴って襲う。
 溜め息をつきかけたが、我に返り、何とかそれを堪えた。
「あ、無くなっちまった」
 冬馬が一生懸命に一升瓶をひっくり返しているが、一滴二滴しか出てこない。どうやらもう空のようだ。
「あっ、買ってきますよ」
「いいよ。外、雨降ってるから」
 見れば窓に小雨が張り付いている。
「いえ、買ってきますよ。先生、お酒が無いと書けないんですよね」
「まあ、そうだが。……いいの?」
「もちろんです」
「じゃあコンビニで何でもいいから純米酒を買ってきて」
「わかりました」
 渚は書斎を出て支度をすると、外へ出た。
 窓から見る雨は小雨だったが、外に出れば結構なものだった。傘を差しながら濡れないようにコンビニへ急ぐ。
 お酒を買って家路を辿っていると、不意に猛烈な感傷にとらわれてきた。
「お酒があったら、完成しちゃう。これが無ければ、もう一日長くいられるかな」
 そうだよ、完成しなきゃずっと先生の側にいられるんだ。
 立ち止まり、酒瓶を見詰める。
「……って、何考えてるのよ。小説が完成しなかったら先生がダメになるじゃない。側にいられたとしても、そんな先生ダメだよ……」
 私がいたから先生がダメになったなんて、絶対にやだよ。でも、でも……。
 頬を濡らすのは雨ではなかった。
「ただいまです」
 帰宅するとすぐ書斎に入り、酒を渡した。
「ありがとう。雨、強くなかった?」
「ええ、大丈夫でしたよ」
「そっか。うん、じゃあがんばるか」
 そうだよ、先生がダメになったらこの笑顔もダメになるんだ。きっと思い出した時に、先生が笑ってくれなくなる。
 渚はまた冬馬のやや後ろに座った。
 しばらくして、冬馬の手が止まった。と同時に冬馬が両手を挙げながら後ろに倒れた。
「終わったー」
「おめでとうございます、先生」
「ああ。ありがとう」
 冬馬の笑顔に渚も微笑み返す。
「さて、祝杯といこうか」
「お付き合いしますね」
「当然だ」
 渚がコップを持ってくると、冬馬は喜々として注いだ。
「では、先生の小説の完成をお祝いして」
「かんぱーい」
 カチリとコップが重なり二人共口をつける。
「うーん、美味い」
「そうですね」
「これもひとえに渚のおかげだよ。こうして美味い酒が呑めるのも、渚のおかげだ」
「そんな……」
 でも、嬉しいな。
「まだ少し作業は残っているんだが、それでも明日中には長田に渡せそうだ。そうなったらあとはもう、結果を待つだけ」
「よい結果が聞けますよ」
「そう信じたいな」
「大丈夫ですよ、先生なら」
「そうかなぁ」
「先生」
 きっと渚が冬馬を見詰める。
「先生はこれに不安や心配な要素はあるんですか?」
「いや、無いな。少なくとも俺は持ちうる限りの力を出しきった。そう信じてる」
「では大丈夫ですよ。先生は前に私におっしゃいましたよね。ダメかどうかなんてのは本人が決めるものではないと」
「まあな」
「先生は先生の全てを出しきった。それがダメなわけないじゃないですか」
 ふっと冬馬が微笑む。
「そうだな。だけどこれは俺一人の力じゃない。渚の力のおかげでもある。それは確かだ」
「先生……」
 私達は引かれるように身を寄せ、唇を静かに重ねた。
 先生に抱き締められていると安心できた。
 先生が私に触れる度に不安や迷い、寂しさが消えていった。だから私も素直に先生を求められ、受け入れられた。
 恥ずかしさはもちろんあった。裸になるとより一層。だけど先生に愛される程に切なさが嬉しくなり、体が熱くなっていく。
 一つになる時は、まだどこかで怖さを感じていた。けれど先生が微笑みながら何度も髪を撫でてくれたり、体にキスしてくれたので、私は自分から先生を迎えられた。
 先生と呼ぶ度に愛しさで胸が張り裂けそうになった。大好きな人に抱かれている。大切な人とこうしていられる。その想いが私を芯から震わせた。
 真っ白になる直前、私は先生を強く抱き締めた。飛んでしまいそうな私から先生を離さないように、しっかりと想いを刻むために。そして、消えないように……。
 互いのハートがカチリと触れ合った。
 全てが終わると二人は布団の中で寄り添いながら微笑みを交わしていた。
「明日は晴れるかな」
「天気予報では晴れると言ってましたよ」
「そうか。じゃ、晴れたら一緒にのんびりと散歩でもするか」
「いいですね」
 渚が冬馬にすり寄る。
「えへへー」
「何だ、珍しいな」
「私だってこうして先生に甘えたいです」
「そう言うのは大歓迎だ」
「本当ですか。でしたらもっと甘えます」
「おお、いいぞ。何ならもう一回やるか?」
「先生のエッチ」
 もう一度二人は微笑み合った。