八月二十一日 火曜日

「うぇ〜」
 気持ち悪い。頭がズキズキする〜。
「……あれ?」
 ここ、書斎だ。私、何でこんな……痛っ!
 今いる場所に気付き、体を起こそうとした途端頭に電流のような痛みが走り、また寝た。
「何で私、こんな……」
 ふと半分以上空になった一升瓶に目が止まり、記憶を取り戻した。
「そうだ。昨日先生とお酒呑んだんだった」
 少し視線を動かすと冬馬も近くで寝ていた。
「うぅ〜、また呑み過ぎたみたい。だったら先生に迷惑かけたんだろうな……」
 言い知れぬ不安と罪悪感が急速に膨らんでいく。渚は冬馬の側にいることに耐えられず、痛む頭を押さえながらそそくさと書斎を出た。
 とりあえず着替えてから麦茶を飲む。一気には飲めないので、ゆっくりと。するとほんの少しだけ楽になれた。
「七時半か……」
 やるべきことはあるが、まだ働ける程ではない。仕方なく渚は麦茶を飲み続けた。
 ようやく頭の痛みが動いても大丈夫なくらいにまで落ち着いた頃には、十時になろうとしていた。
「よし、お掃除でもしよう」
 掃除機は冬馬がまだ寝ているため使えないので、拭き掃除中心となる。渚はテーブルを拭き、窓を拭き、棚を拭く。
「よし、次は」
 靴磨きを始める。思えば、川に入ってから汚いままだ。渚は隅々まで綺麗に汚れを落とし、ワックスをかける。
「うん、綺麗。さてと」
 次は洗濯機でも動かそうかと思ったところで、書斎の襖が開いた。
「おはよう」
「おはようございます、先生」
 渚はすぐに冬馬に麦茶を差し出す。
「ありがとう。いや、昨日はすごかったね」
「うっ、やっぱり何かしました?」
「覚えていないの?」
 冬馬が大きく目を剥いた。
「はい。あの……昨日私は一体何をしたのか、よろしければ教えて下さい」
「昨日渚は買い物に行って」
「もっと後です。お酒呑んだ時のことです」
「いや、何もしてないよ」
 冬馬は意味深な微笑を浮かべる。
「本当ですか?」
「ああ。酔って俺にキスしたり、暑いでしょうとか言って服を脱がせにかかったり、俺に塩をかけたりなんてしてないから心配するな」
「……うっ、すみません」
「ぜーんぜん気にしてないから」
 ……嘘だ。目が笑ってないよ。
「すみません、先生」
 渚は小さくなる。
「ま、後で軽いおしおきでもしてやるからな」
「おしおきって何です?」
「一日中ノーパン」
「うっ、そんな……」
 幾らなんでも、そんなのやだよ。
「なんて考えたりもしたが、酒の失敗は失敗にあらずと自分で言ってる手前、残念だけどできないよな」
「あ、ありがとうございます先生」
「まあ、いいから。メシにしてくれ。お茶漬けでいいから」
「はい」
 渚は頭を下げると、台所に立った。
 幾らもしないうちにお茶漬けが完成した。二人共まだ胃が荒れているため、少量。
「渚も大分やられてるだろ?」
「はい。起きたら二日酔いでひどかったです」
「俺も。ま、お互い結構呑んだからな」
「そうですね」
 うぅ〜、お茶漬けが入っていかないよ。
「これじゃ、今日も酒を買わないとな」
「おじさんに何か言われそうですね」
「ああ。でもその時は渚のせいにする」
「えぇー、先生も呑んだじゃないですか」
「俺一人じゃあんなに呑まない」
「ですけど……」
 渚の表情が曇る。慌てて冬馬が言葉を紡ぐ。
「冗談だって。だから深刻に考えるな」
「すみません」
「ほら、早く食おうぜ。お茶漬けは冷めたら美味くない」
「はい。でも、入らないですよね」
「……そうなんだよな」
 それでも何とか食べ終えると冬馬は新聞を開き、渚は食器を洗い始めた。
 新聞を読み終えた冬馬が書斎に入った頃、食器の片付けが全て終わった。次は洗濯物を洗濯機の中へ入れ、スイッチを押す。
「さてと……」
 風呂掃除でもしようかと思ったが、まだ体がだるいので大人しく渚は寝室に入り、畳んである布団に凭れた。
「あー、何かダメ。動けないよ」
 まだお酒が大分残ってる。働かなきゃいけないのに、体が言うこと聞いてくれない。
「でも、私がこんなんじゃダメなんだから」
 よっと体を起こし、渚はリビングに掃除機をかけ始めた。そしてそれが一段落着いたところで、洗濯機が止まった。
「うーん、いい天気」
 太陽に向かって伸びをしてから、洗濯物を干し始める。今日は少し雲が多い。明日には雨が降ると天気予報では言っていた。
 それも片付くと、渚は書斎の襖を開けた。
「先生、これからお買い物に行きますけど、何か必要なものはありますか?」
 冬馬は原稿用紙から渚の方へ目を移す。
「ある。CD買ってきて」
「誰のです?」
「……うーんとな、ちょっと名前は忘れたけど、ほら、CMでもやってる赤いジャケットのやつ」
「ちょっとわかりません」
 二人して首を捻る。
「わかんない?」
「……わかりません」
「じゃ、俺も行くよ」
「そうですか。では、行きましょうか」
 支度には五分もかからなかった。
「今日は比較的涼しいな」
「そうですね。でも明日は雨なんですよ」
 柔らかな風に全身を撫でられながら、渚と冬馬は商店街へと向かう。
「暑さはまだ続きますけど、夏ももう終わろうとしていますね」
「そうだな。長いようで短かった夏。いつも待ち遠しく感じるのに、あっと言う間に過ぎ去ってしまうんだよな」
「そうですね。でも、短い夏だからこそ鮮明に記憶に残るんですよ」
「確かにそうだな。本当にこの夏は短かった。渚が来たから、なおさらそう感じるよ」
「それでは秋も冬も短く感じそうですね」
「だといいな」
 そっと冬馬の手が渚の手に伸びる。
 えっ?
 驚いたものの、渚も冬馬の手を握り返した。
「……先生」
「何だ?」
「……何でもないです」
 心地よい沈黙。ゆるやかな日差しと風が二人を包み、時を遅らせる。
 先生の手、暖かい。暖かくて、力強くて、すごく安心する。好きな人にこうして触れていると、こんなにも気持ちよくなれるんだ。
 幸せな一時は商店街に着くと、終わった。どちらからともなく手を離し、またいつもの距離に戻りながら、各商店を回る。
「今日は何にするんだ?」
「先生は何が食べたいですか?」
「ゴハン以外のメシ」
「では、パスタにしましょうか」
「だったらカルボナーラがいいな」
「それにしましょうか」
 一通り食材を買い揃え、冬馬の欲しがっていたCDも買うと、最後に酒屋に入った。
「おう先生、久しぶり」
 店主は渚と冬馬に気付くと週刊誌から目を離し、嬉しそうに近付いてきた。
「最近姿を見せなかったから心配してたんだ。この前なんてメイドさんが捜しに来ていたぜ。ダメだよ、心配かけちゃ」
「ま、ちょっと色々あってね。仕事も忙しかったし」
「そうか。ま、先生が元気でいて何よりだ。しかし……」
 店主は冬馬と渚を交互に見る。
「何だか前よりも仲良さそうだね」
 えっ、やっぱりわかるのかなぁ?
「ま、何があったのかと訊く程、俺も野暮じゃないから、よしとこう。でも若い二人ってのはいいねぇ。俺もあと二十年、いや、三十年若けりゃ……」
「妄想膨らませるより、客の会計だよ」
「先生はそればっかりだね」
 酒屋を出てから程無く渚が冬馬を見上げた。
「わかるものなんですかね?」
「だろうな。同じようにしていても、どこか違うんだろ。ま、いいじゃないか」
「いいですけど、何だか恥ずかしいです」
「そう? 何で?」
「……よく、わかりません」
 何でって言われても、わかんないよ。でも何でなんだろ?
 恋をすると、何で全てが恥ずかしくなるのだろう。当たり前のこと、何てことのないことでも、何で……。
「ま、気持ちはわかるよ。きっとありのままの自分、心を裸にしてるからだよ」
 そうか、そうなんだ。私の一番大切な心を晒しているからなんだ。でも、本当にそうなのかな。よくわからないや。
「先生はやっぱり作家さんなんですね。私はそんな深いこと、考えられません」
「気付かないだけだよ。俺のしていることなんて、みんなできることだ」
「そんなこと無いですよ」
 渚はふっと視線を外した。どこかの家のヒマワリが枯れかかっている。それを見ていると何故か悲しくなった。
「一つの季節が過ぎるのって、何だか物悲しいですね」
「そうだな」
 冬馬の歩調がゆっくりになる。
「でも、そうじゃなかったらつまらないよ。ヒマワリも蝉も、一年中がんばっていたら、何の情緒も無い。って、ジジイ臭いこと言ったかな」
「いい言葉だと思いますよ」
「そう言われると照れるな」
 不意に一陣の突風が駆け抜けた。
 あっ、うさぎさんが呼んでる。
 渚は冬馬の手を離し、導かれるように小学校へと駆け出した。
 うさぎ、うさぎ。
 喜び勇んでウサギ小屋に近付いていると、美帆が駆け寄ってきた。
「渚お姉ちゃん、大変だよ」
 ただならぬ美帆の様子に渚もいつしか笑顔が消えていた。
「どうしたの?」
「とにかく、もう……。早く来て」
「う、うん」
 今にも泣き出してしまいそうな美帆に引っ張られながら、数人の小学生の集まっているウサギ小屋に着いた渚は、もう一度何事かと美帆に訊ねた。
「あれ……」
 見てみると、一匹だけ群れから外れてぐったりとしているのがいた。
「チーだ。どうしたの?」
「わかんない。今日来てみたらあんな風になってて……」
「中に入ってもいい?」
「うん」
 小学生の一人が鍵を開けると、渚はすぐに息も絶え絶えなチーをそっと運び出した。
「チー。ねぇ、どうたの?」
 指でそっと撫でた時、私は直感した。生気が著しく少なく、このままでは危ないと。
 だけど、私は何もできない。とても無力だ。エプロンで包み、優しく指先で体を撫でてあげることしかできない。
「ったく、また今日も……ん、どうした?」
「先生……」
 未だ状況の掴みきれていない冬馬に、渚は必死にすがる。
「先生、チーが、チーが死にそうなんです」
「子うさぎが?」
「はい。でも私、どうしたらいいか……。先生お願いです、何とかして下さい」
「何とかって……」
「先生、早く。お願いです」
 しばしの沈黙。だがすぐに冬馬は、
「わかった。とりあえず先生を呼んで来るから、ここで待ってろ」
 そう言って校舎の方へ駆け出した。
「渚お姉ちゃん、チーは大丈夫?」
「……わかんないよ。でも、きっと先生が何とかしてくれるよ」
 そんなこと言われても、正直私は何とも言えなかった。だけど、先生はいつでも何とかしてくれた。今は、先生を待つしかない。
 刻一刻とチーが弱っていくのがわかる。だけど私は何もできない。人のお世話はできるけど、今それは何の役にも立たない。
 私は無力だ。今、本当にそう思う。こんなに弱っていても、何の処置もしてあげられず、ただおろおろするばかり。美帆ちゃん達と、何も変わらない。
 どのくらい待ったのかよくわからないけど、とにかく先生は教員を連れてきてくれた。
「先生」
 思わず泣き出しそうになったけど、何とか涙を堪える。今は不吉だ。
「すみません、ちょっと」
 そう言って差し出された手に、渚は静かにチーを乗せた。教員はしばらくチーを観察した後、
「きっと、脱水症状でしょう。水を飲ませれば、もしかしたら……」
 渚にチーを返した。
 教員の指示を受けた男の子が、すぐさま受け皿に水を入れて持ってきた。渚はその側にチーを置くが、チーは何の反応も示さない。
「うぅ〜、飲んでよー」
 渚はもう一度チーを抱き上げ、自分の指先を水で湿らせ、チーに舐めさせる。ようやく反応があったものの、弱々しい。
「ダメだよ。もっと飲んで。お願い」
 何度も何度も指先を湿らせ、舐めさせる。だが次第にチーの舌が動かなくなっていく。
「チー、飲んで。じゃないと死んじゃうよ。もっと生きてよ。一人で死ぬなんて寂しいよ」
 チーの体から力が抜けていく。それでも渚は諦めずに、指先から水分を与える。
「もっと生きてみんなといようよ。がんばって生きれば、色んなことがあるんだよ。辛いことも楽しいことも、素敵な思い出になるんだよ。だから……死なないで」
 渚の願いも虚しく、やがてチーは事切れた。だが渚はそれでも水分を与えようと、必死に指先を湿らせてはチーの口元へと持っていく。
「ほら、飲んでよ。お願いだから、飲んでよ」
 教員は首を力無く横に振り、美帆達は泣き出す。だが渚はやめようとしない。
「ねぇ、チー。ほら、ほら……」
「渚、もういいよ」
「もう少し、もう少しだけ先生……」
「渚」
 がっしりと先生に両肩を掴まれた瞬間、私の中で何かが切れた。ふと目を落とせば口元をしとどに濡らしている動かないチー。その姿を見ていると私は悲しいと思うより先に、泣き崩れた。
 暑い八月が、少しだけ憎く思えた。
 泣いて泣いて、涙が出なくなっても泣いて、そうして少し落ち着いた後、みんなでチーのお墓を作った。みんなに会えなくて寂しくならないよう、ウサギ小屋のすぐ近くに。
「今日はもう、帰るね」
 誰となしの呟きで、私達はそれぞれの家路を辿った。
 先生と並んで歩くのが少し辛かった。けど、誰かと一緒にいないと、悲しみに耐えられない私が確かにいた。
「……先生」
「何だ?」
「私、チーに何もしてあげられませんでした。無力な自分が、とても悔しいです……」
「そうでもないさ」
 冬馬は胸ポケットからタバコを取り出し、火を点ける。
「渚がいなかったらあの子うさぎは誰の暖かみも知らないままだった。最期に渚はほんの少しでも、温もりを伝えてあげられたよ」
「でも、それでも……」
「……」
 冬馬は深々と煙を吸った。
「あの子、何のために生まれてきたんでしょうね?」
「……」
「生まれてきたと思ったら、暑さにやられてすぐ死んで。一体何のために生まれてきたんでしょうか?」
「……俺にはわからないよ」
「……そうですよね。すみません」
 何だか、全てが不公平に思えた。
 帰宅すると渚は寝室に入った。本来ならば何かと冬馬の世話をしなければならないのだが、今は何もできなかった。その辺は冬馬も了承してくれているみたいだった。
「チー……」
 渚はエプロンを愛しそうに抱いた。
 何で死んじゃったの?
 何のために生まれてきたの?
 この短い間で何を知り得たの?
「私には、わかんないよ。ただ苦しむだけにしか、思えないよ……」
 じわりと視界が揺れる。
「苦しむためだけの生だとしたら、悲し過ぎるよ……」
 景色が地に落ちて消える。
「もっと、これから一緒にいたかったよ……」
 前が、見えなくなった。
 寝室の襖が開き、冬馬が入ってきた。
「渚」
「……先生」
 横になっていた渚がむくりと起き上がる。涙はもう止まっていた。
「風呂沸かしたから、入りなよ」
「あっ……、すみません。本来なら私の」
「いいよ、今日ぐらい。気にするな」
「……すみません。あの、先生はもうお入りになったのですか?」
「いや、まだだけど」
「でしたら……」
 ふっと冬馬の頬が緩む。
「たまには一番風呂ってのもいいぞ」
「はい」
 先生の優しさについ甘えてしまうのは悪いと思いつつも、私は頷いていた。
 お風呂で涙の跡を消せたのはよかった。確かに湯槽につかっていると少しだけ心が晴れた。けれども、完全ではなかった。
 風呂から上がり、渚は冬馬が入っている間、食事の支度を終えた。仕事に集中していれば少しは忘れられるかと思っていたが、それもできなかった。タマネギを切っていると涙が溢れたのは悲しいからとは思いたくなかった。
 夕食はカルボナーラにサラダ、それにコンソメスープだった。二人共明るくいただきますと言ったものの、固さは拭い切れない。
「いい具合で茹で上がってるな」
「そんなこと無いですよ」
「そんなことあると思うが、まあ、いいや。なあ、渚はスパゲッティの中で何が好きだ?」
「シーフードですね」
「なるほど」
 一頻り納得しながら冬馬はフォークを口に運ぶ。その間から不快な沈黙が頭をもたげ、二人は目が合う度、気まずそうに逸らす。
「あ、あのさ、イカスミのスパゲッティって食ったことある?」
「いえ。先生は?」
「俺も無いんだ。美味いのかな?」
「どうでしょう。今度作ってみますか」
「ああ」
 それきりまた沈黙が場を支配する。
 ……何か、あまり味がしないよ。やっぱりチーのことがあるから、だよね。
 あらかた食べ終え、冬馬が席を立って書斎へ入ろうとした途端、急に立ち止まり、
「後で、ここに来てくれよ」
 そう言ってから書斎に消えた。
 一体、何の用だろう?
 食器を洗いながら渚は小首を捻る。
「正直言って、今は一人になりたいのにな」
 一人になればまた深い悲しみの中へ身を置くだろうと思ったが、チーを想えばそれでもいいかとさえ考えていた。
 だが、どんな時でも優先するのは自分より主人の命令。渚は片付けを終えると、書斎に入った。
「先生、あの……」
「あ、そこに座って少し待ってて」
 渚は指定されたいつもの位置に座ると、次の言葉をじっと待った。
 ……まだかな。
 だがいつまで待っても冬馬は必死にペンを動かすだけで、何も言おうとはしない。
 先生、何のために私を呼んだの?
 ひたすら待たされ、次第に何とも言えない苛立ちに似た悲しみが湧き起こりどうしようもなくなってきた頃、冬馬が振り返った。
「渚、コップ取ってきて」
「はい」
 すぐに台所からコップを持ち、冬馬に渡す。
「いや、これは渚のだ。ほら、仕事も終わったから、少し呑もうぜ」
「先生、私は……」
「今日だけは俺のワガママに付き合ってくれ」
「……はい」
 気が乗らなかったけど、こう言われればどうしようもなかった。仕方なく私は先生からお酒の入ったコップを受け取る。
「酒にはもう慣れたみたいだな」
「先生のせいです」
「おいおい、おかげじゃなくてせいかよ。ま、いいけどね」
「……」
 苛立ちが抑えきれない。どこか刺々しいのが、自分でも嫌になる。
「渚、まだ気にしてるのか?」
「……はい」
 忘れられるわけ無いじゃない。だって私の手の中でチーが死んだんだよ。
「でもあまり気にし過ぎると、子うさぎも安心できないままだぞ」
「わかっています。けど、無理なんですよ」
 渚はコップを傾ける。
「私は無力です。助けることも、その悲しみから立ち直ることも、できません。ただ眺め、可愛がっては自分を満足させることしかできないんです」
「助けられなかったのは……」
「仕方ないって言うんですか。そうかもしれませんけど、それではやりきれません」
 渚は唇を噛み、うつむく。
「時間がいつか何とかしてくれるとも思いたくありません。時間はただ何もしてあげられなかった私も、チーも風化させるだけです。この悲しみやチーを忘れてしまうなんて……」
「その気持ちは、俺もわかるよ」
「気休めの言葉なんて、いいです」
「気休めなんじゃない」
 冬馬は渚を見据える。
「俺も大切な人を失ったことがあるから言うんだ」
「先、生……?」
「俺も渚と同じことを考えていたよ。でもな、最近ようやく気付いたんだ。忘れられなければ、ずっと背負えばいいと。忘れたくないのなら、ずっと考えていればいいと。でもな、いつまでもそこばかりを見詰めていたらダメなんだ。その重さに耐えきれず、潰れてしまうから」
「……」
「無理せず、自分に正直に生きればいい。渚は素直な心のままでいい。泣きたいのなら、泣けばいい。悲しみたいのなら、底を見てもいい。そうすれば、いつか笑って思い出せるようになるさ」
「……先生?」
 渚の瞳の景色が揺れる。
「今だけ、今だけ思い切り泣かせて下さい。明日には笑えるようにしますから」
「ああ、いいよ」
 私は先生に抱かれて、大声で泣いた。見えも外聞もなく、ひたすら泣いた。悲しくて、悲しくて、でも、後から溢れる涙には、先生の優しさが暖かくて泣いた。
 まるで遠い昔に忘れてきたような涙だった。