八月二十日 月曜日

「うぅ……ん……」
 目覚めたものの、目が開かない。だけど、先生のゴハン作らなきゃ。
 ころりと寝返りを打とうとすると、何かにぶつかった。
「わっ」
 驚いて目を開けると、隣で冬馬が寝ていた。と同時に昨日が思い起こされ、渚の胸が熱くなった。
 そうだ。私、先生と……。
 きゅっと布団の端を掴み、頬まで上げる。
 先生、カワイイ寝顔してる。
 無邪気に眠っている冬馬の寝顔を飽くこと無く、渚は見詰め続けていた。
 十分程して、冬馬が呻きながら目覚めた。
「おはようございます、先生」
「うん、おはよう」
 冬馬は寝惚け眼を何度も擦る。
「ところでいつから起きてた?」
「十分くらい前からです。その間ずっと先生の寝顔を見ていました」
「悪趣味な」
「でも先生、カワイイ寝顔でしたよ」
「そう言う渚も昨日は……」
 冬馬は含み笑いを漏らす。
「せ、先生、そんな恥ずかしいこと言っちゃダメです」
「いいじゃないか」
「よくないですよ。恥ずかしいです」
 渚は少しだけ布団に顔を埋める。
「じゃあ、もっと恥ず……」
 不意に冬馬の腹の虫が大泣きした。と同時に二人は思わず失笑した。
「おなか空きましたね」
「ああ。すぐメシにしてくれ」
「わかりました。あの、服着ますからあっち向いていて下さいね」
「嫌だ」
「えっ?」
 な、何を言うの?
「今日は一日裸でいてくれ」
「そんなのできませんよ」
「じゃ、上だけ着ていいから」
「それもダメです」
「……ケチ」
「ケチじゃありませんよ。さ、先生」
 渚が促すも、冬馬はそれに従わない。
「先生〜」
「どれもダメならせめて今だけ……」
「恥ずかしいですから〜」
「じゃ、今日はずっとこのままだな」
「うっ……」
 もう、先生ったら子供みたいなんだから。恥ずかしいって言ってるのに〜。
 渋々渚は布団から出ると、素早く着始めた。冬馬はその一挙手一投足をじっくり眺めては莞爾として目を細めていた。
「それじゃ、ゴハン作りますね」
 渚は冬馬の着替えを用意すると急いで書斎を出、台所に立った。
「もう、昨日はあんなに優しかったのに……」
 やっぱり先生はエッチだ。
 渚は目玉焼きを皿に乗せると、胸元からネックレスを指ですくった。
「……でも、やっぱり先生は私にとって一番大切な人なんだよ」
 鈍色に輝く割れたハートは暖かかった。
「先生、ゴハンですよ」
「おう」
 呼ぶとすぐに冬馬が書斎から出てきた。朝食は目玉焼きに野菜炒め、海鮮サラダに味噌汁だった。
「久々に朝メシ食う気がする」
「そうですね。私も久々にこうして朝ゴハン食べるような気がします」
「ま、これからはなるべく三食ちゃんと食うようにするよ」
「そうして下さいね」
 渚は微笑みながら味噌汁を啜る。
「ところで先生、作品の方は進んでいるんですか?」
「うん、まあぼちぼちかな。あと二、三日もあれば完成するよ」
「そうなんですか」
「ああ。だから完成したら一番に読んでくれ」
「はい」
 嬉しいな。私が第一号なんだ。
 と、そこで渚は冬馬の胸元に気付いた。
「先生、それ……」
「ああ、これか」
 冬馬は胸元から渚の対になっているネックレスを取り出した。割れたハートが射し込む日に当たり、キラキラ光っている。
「やっぱりこれは机の中で眠らせておいてはダメだからな。俺もつけることにしたんだ」
「ようやくこれで、おそろいですね」
「ああ、おそろいだ」
 渚と冬馬は互いのを見詰め合いながら、屈託の無い笑みを漏らした。
 食事を終えると冬馬は書斎に入り、渚は洗い物にとりかかった。何だか本当に久々に冬馬の食器を洗う気がした。
「先生のとおそろいか。当たり前のことなのに、初めてそうなった気がするよ」
 自然と笑顔になり、渚はもう一度胸元に視線を落とした。
 洗い物を終え、洗濯物を洗おうとした途端、冬馬が書斎から出て玄関へ向かった。
「あれ、先生。お出掛けですか?」
「うん。ちょっと詰まってね。気晴らしに散歩してくるよ」
「そうですか。それではお気を付けて」
 ドアが閉まり、冬馬がいなくなっても渚は笑顔でいられた。もう私が心配しなくても先生はここへ帰ってくる。先生を信じられる。そう深いところで感じていた。
 洗濯機が脱水を終え、ベランダに干し終わると渚はソファに座り、ネックレスを握り締めた。冬馬が外出してからかれこれ一時間は経つが、その間一度も不安や寂しさを抱いたことは無かった。
 それは渚が冬馬を信じていたから。だから道がはっきりと見え、自分を失わずに済む。昨日まではこうしていると孤独に苛まれ、一人涙していたが、これからはもう大丈夫。そんな自信すら湧き上がっていた。
「お仕事も一通り終わったし、何しようかな」
 だけど暇には勝てない。渚は寝室に入り、読みかけの小説を手にした。
 目が疲れてきたのできりのよいところまで読むと、渚は栞を挟んだ。
「何しようかなー?」
 ころりと仰向けに寝転がる。時刻は十二時。まだ先生は帰ってこない……。
「先生に新しいゴハン食べさせようかな」
 起き上がり、バッグの中から料理の本を取り出す。ぱらぱらと手当たり次第に頁をめくっては、何にしようか思案を巡らす。
「牛肉と野菜の煮転がしか……」
 会社で何度か煮転がしを作ったことあるけど、一度も美味しくできたこと無いから、これはパス。
「豚煮込みすいとんか……」
 美味しそうだけど、作ったら暑そう。うん、鍋料理はちょっとひかえよう。
「ハムと柿のサラダ……」
 今、柿なんて売ってたかな?
「あ、これにしよう」
 渚が目を落とした頁には『たっぷりチーズのグラタン』と書かれていた。
「これなら何とか作れそうだし、美味しくできそう。先生、喜ぶだろうな」
 ……何か、見てたらおなか空いてきたな。うん、先生には悪いけど、先にゴハンいただいちゃおう。
 寝室を出て、台所に立つ。グラタンを実験的に作ってみたかったが、マカロニが無いので、作れない。仕方なく朝食と同じような昼食となってしまった。
「いただきます」
 朝食と同じお味噌汁は、何だかちょっぴり味気無く感じた。
「やっぱりゴハンは一人で食べちゃダメだ」
 朝ゴハンがあれだけ美味しく感じたのも、先生と食べたからだ。寂しくないと言えば嘘になる。うぅ〜、夕食は一緒に食べよう。
「でも先生が忙しいと、また一人なのかな?」
 そんなのやだよ。
「あぅ〜、だけど無理強いはできないし〜。どうしたらいいのかなぁ?」
 とりあえずその時になるしかない。渚は昼食を終えると、食器を洗った。
 たくさん太陽を浴びた衣服は日向の匂いがした。渚は洗濯物を取り込むと、アイロンをかけ始める。
「夏場のアイロンがけって、嫌だな」
 何度も額に滲む汗を手の甲で拭いながら、何とか全て片付けると、渚はソファに座り、麦茶を口にした。
「今日も暑いなぁ」
 洗濯物は早く乾くからいいけど、他には何をするにも参っちゃう。
「先生はまだ帰らないし」
 時計を見ると一時半。
「することはあるんだけど……」
 各部屋の掃除、整理など仕事は幾らでもしようと思えばある。
「お散歩してこよう」
 麦茶を飲み干すと、渚は外へ出た。
 この暑さは食後の散歩には少々辛かった。けれど私は胸いっぱい日向の匂いと緑の匂いを吸い込み、蝉の声を聞き、夏を全身で感じていた。
 本当に今年の夏で私は色々変わった。派遣メイドとして、まだ半人前だけど、一応こうしてお仕えしているし、その上先生と恋仲になれた。昨日までメイドとして生きるべきか、女として生きるべきか迷っていたけど、その両方を得られた。私は幸せ者だ。
 そぞろに歩いていると、昨日の橋に差しかかった。欄干の中央へ行き、凭れる。
「ここで全てが終わり、始まったんだもんね」
 想いを捨て、泣き崩れていると先生が来て、更に強い想いを私にくれた。薄汚く、見るからにみすぼらしい川でなんて少しロマンが無いけど、だからこそいいのかもしれない。
 渚は川を覗き込む。
「もうこの想い、捨てないからね」
 渚は一つ笑うと、また歩き出した。
 そろそろ帰ったら先生いるかな。なんて考えながら歩いていると、前方に見知った人がぼんやりと空を見上げていた。
「新堂さん、こんにちは」
「ああ、渚さん、こんにちは。いやぁ、今日もいい天気だねぇ」
「ええ、そうですね」
 渚が笑いかけると、新堂も笑った。
「何だか渚さん、嬉しそうですね」
「そう見えます?」
「ええ、今まで抱えていた迷いが全てふっきれた。そんな感じがしますよ」
「えへへ。それはきっと新堂さんのおかげに違いありません」
「私の?」
「はい。自分に正直になれましたから」
 もう一度渚はにっこりと笑う。
「はは、それは渚さん自身がそうしたからで、私は何もしていないよ。でも、そう言うのならば、ありがたく受け取っておきますよ」
「えへへ、どうぞどうぞ」
 不意に蝉の声が止んだ。
「時に渚さん、一ついいかな」
「何です?」
「ようやく手にした幸せも、抱いているだけでは腐るんだなぁ。そう、水のようなものだ。あれば何とも思わず、無くなれば死んでしまい、あり過ぎれば溺れる」
「……難しいですね」
「守らなければいけない、そういうことだよ」
「はい、肝に銘じておきます」
 また蝉が鳴き始めた。
「それでは私はそろそろ」
「あ、はい。それでは」
 渚は一礼すると、いつまでも遠ざかる新堂を見詰めていた。そしてその姿が完全に消えると、家路を辿った。
 守らなければならない、か。そうだよね。私が努力しないで先生の優しさに甘えてばかりいたら、先生に愛想尽かされちゃうもんね。
「……がんばらなきゃ」
 頬を叩く音が、夏の空に消えた。
「ただいまです」
 帰宅しても冬馬は帰っていなかった。
「先生、遅いなぁ」
 乾いた喉を麦茶で潤していると、突然玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさい、先生」
 渚は汗をかいている冬馬に麦茶を渡すと、ソファに向かいになって座った。
「随分長い散歩でしたね」
「……ああ」
「どこまで行ってらしたんです?」
「海に行ってた」
「いいですね、海。私、一度も行ったことが無いので、今度連れて行って下さい」
「うん。この仕事が終わったら行こうか」
「はい。あの、先生、ゴハンはもう食べましたか?」
「いや、まだだけど、渚は」
「食べましたよ」
 一人で味気無かったけど……。
「じゃあ、何か軽く作ってくれ」
「はい」
 渚は台所に立つと、フライパンに油をひき始めた。昼食は先程食べたのと同じのにして、夕飯はグラタンにしよう。なんて考えながら渚はフライパンに卵を落とした。
 冬馬の遅い昼食ができあがるとリビングのテーブルに運び、渚は冬馬の向かいに座った。
「朝と一緒か……。何か違うもの食いたかったなぁ」
「すいません、先生。お買い物に行かなかったもので……」
「ま、いいけどね」
「でも、晩ゴハンは新メニューに挑戦するので、期待していて下さい」
「おっ、何作るの?」
「えへへ、秘密です」
 渚は一口麦茶を飲む。
「ま、夜のお楽しみにしておくか。ところで渚、後で肩揉んでくれるか?」
「いいですよ。先生、お疲れなんですか?」
「ああ。こう書いてばかりだと腰や肩が痛くてね。職業病ってやつだ」
「作家さんも大変ですね」
「メイドさんも大変だろうけどね」
「私は好きでしていることですから」
「でも疲れるだろ」
「まあ、多少は」
「じゃ、俺も渚の肩を揉んでやるよ」
「えっ、いいですよ別に」
 渚は胸の前で小さく手を振る。
「どうして?」
「メイドの私に先生がそんな。私は自分でできますから」
「ふーん。ま、いいや」
 食事を終えると渚はすぐに洗い物にとりかかった。その間、冬馬はリビングで新聞を広げている。
 肩凝りか。確かに私も疲れが溜まってる。でも私より先生の方が疲れているから、私が疲れたなんて弱音を吐いちゃダメだよね。
 片付けを終えると渚は冬馬に近付いた。
「では、揉みますよ」
「お願い」
 渚は冬馬の肩に手をかけ、力強く揉む。
「う、巧いね」
「これでも私、マッサージには自信があるんですよ」
「こういうことも教えられるの?」
「いいえ。これは独学で覚えたんです。私、こういうのが好きで、よく会社のみんなにしているうちに巧くなったんです」
「へぇー」
「だからツボとかにも詳しいんですよ」
 ぐいっと渚は背中を親指の腹で押す。
「いってぇ〜!」
「効きました?」
「何のツボだ?」
「胃腸のツボです。そしてここが」
 ぐりっと今度は別の場所を押す。
「あだだだだだ……」
「二日酔いのツボです。あと、先生に効きそうなのは」
 ぎゅっとまた別の場所を押す。
「のおおおおおおぉ……」
「これがストレスのツボです」
「俺の体はボロボロだな」
「そうですね。先生、もっとお体を大事にした方がいいですよ」
「そうだなそうしようか……痛っ!」
 冬馬の体がびくりと跳ねた。
「ここ、痛いんですか?」
「今までで一番痛いんだけど、何のツボ?」
「生理痛に効くツボですけど……」
「……」
「え、えっと、一つのツボに各効果がありますから、一概にそうとは言えませんよ」
「そ、そうだよな」
 空笑いが、妙に響いた。
 マッサージを終えると冬馬は肩を回しながら書斎に入り、渚は買い物のため外へ出た。
 太陽が僅かに傾いているものの長時間熱せられたアスファルトからの照り返しで、今が暑い盛りかもしれない。少し歩いただけで、もう汗が滲み始めていた。
「暑いよー。そろそろ涼しくなる時間なのにこの暑さ、反則だよ」
 胸元をはためかせながら日陰を選んで歩いていると、前方に見知った少女がいた。
「美帆ちゃん」
「あ、渚お姉ちゃん」
 渚に気付くと、美帆は元気いっぱいに笑顔で駆け寄ってきた。
「元気にしてた」
「うん。あのね、お友達もたくさんできたんだよ。みんな私と遊んでくれるし、それとね、お父さんとも仲良くなれたんだ。お父さんの絵を描いて渡したらお父さん、嬉しいって言って美帆を撫でてくれたんだよ」
「よかったね」
「うん」
 にっこりと微笑みかけると、美帆も微笑み返した。その笑顔にはもう以前のような寂しさはどこにも見当たらなかった。
「ねぇ、うさぎ見に行こう」
「うん。でもね、先にお買い物しなきゃいけないから、後でね」
「わかった。約束だよ」
「うん、約束」
 指切りを交わすと、美帆は去って行った。
「よかった、美帆ちゃんが元気になって」
 何だか嬉しくなり、足取りも軽くなった。
 商店街に着くと各商店を回り、食材を揃えていく。レシピを見ながらだから、買い漏らしは無い。
「そうだ。先生のお酒、残り僅かだったんだ」
 慌てて渚は酒屋に入った。
「こんにちは」
「おうメイドさん、こんにちは」
 店主はレジから立ち上がり、嬉しそうに渚に近付く。
「先生は見つかったかい」
「はい。あの、御心配おかけしました」
「いやいや。先生見つかってよかったな」
「はい」
「で、今日はそれだけかい?」
「いえ、買いにきました」
「いつものでいいんだろ?」
「はい」
 会計を済ませると渚は店を後にし、小学校へ向かった。
 ウサギ小屋の周りには数人の小学生がいた。その中には美帆の姿もある。渚が近付くと、美帆が手を挙げた。
「渚お姉ちゃん、早くー」
「はいはい」
 渚が輪に加わり、金網の前にしゃがみ込む。
「うさぎさん元気にしてた?」
 渚は雑草を引き抜き、食べさせる。
「うぅ〜、カワイイよぉ」
「渚お姉ちゃん、あそこ見て」
 美帆ちゃんが指さした先には三匹の小さなうさぎの赤ちゃんがいた。
「うさぎの赤ちゃんだ〜」
「あのね、昨日生まれたんだよ」
「そうなんだ。うわぁ、カワイイなぁ」
「でね、お姉ちゃんに名前付けて欲しいんだ」
「私が?」
 と、突然過ぎるよ。
「うん、お願い。みんなで決めたの」
「三匹かぁ……」
 うーんと、何がいいかなぁ……。
 熱い瞳をしながら子供達が渚を見詰める。
「えっとね……」
 うん、これにしよう。
「モコ、ミミ、チーってのはどう?」
「それ、いいね」
 小学生が一気に沸き立つ。
「えへへ、モコ、ミミ、チー、これからよろしくね」
 手を振ると、三匹は微かに震えた。
「うぅ〜、赤ちゃんカワイイ」
「はい、そこまで」
 誰? いいとこなのに。
「うさうさー、もっとこっち来てー」
 かまわずうさぎさんに手を振る。
「おい、帰るぞ」
「ひゃっ」
 無理矢理腋の下に手を差し込まれ、立ち上がらされた。
「先生?」
「はい。晩メシが腐らないよう、帰るぞ」
「今いいとこなんですよー」
「明日またね」
「あぅ〜、ばいばーい」
 ……先生の意地悪。
 帰宅すると私は先生に麦茶を差し出し、何度も頭を下げていた。
「本当にすみません」
「変わらないんだな、そう言うところは」
「……すみません」
 はぁ、私のバカ。何やってんのよ。
「疲れたから、もう風呂にしてくれ」
「はい。すぐに沸かします」
 渚はすぐに風呂の支度を始めた。
 三十分して、風呂が沸いた。
「一緒に入るか?」
「何言ってるんですか、先生」
「願望、本音、そして欲求」
「恥ずかしいからダメです」
「いいじゃないか。裸ならお互い見ただろ?」
「……でも、やっぱりダメです」
 渚はそそくさと台所に逃げた。
 やがて冬馬も渚も風呂から上がると、渚はグラタン作りに着手した。レシピを見ながら仕込んでいく。
「よし。後はこれをオーブンに入れて完成」
 二十分経てば食べられるんだ。何だ、結構簡単じゃない。
 二十分後。
「うっ、何か焦げ臭い」
 見てみると表面が炭化していた。
「あ、あぁ〜」
 慌ててオーブンから取り出す。
「えぇー、何で? レシピ通りに……あっ!」
 このオーブンだと十分なんだ。
「これ、捨てなきゃ……熱っ!」
 思わず容器を触ってしまい、慌てたあまりひっくり返してしまった。
「わっ、きゃっ!」
 あうぅ〜、ダメダメだ……。
 それでも何とか作り終えると、グラタンが食卓に上がった。十分にセットしておいたのだが、余熱を考慮しなかったため、やはり表面は焦げていた。
「……グラタン、だよな?」
「……はい」
「……黒いね」
「……黒いですね」
「……とりあえず、食うか」
「そ、そうですね」
 渚は一口食べてみる。
 ……苦いよぉ。
「ちょっと苦いな」
「……すみません」
 渚は小さくなり、視線を床に落とす。
「先生、あの、本当に無理して食べなくてもいいですから。何でしたら別の作ります」
「これ食うからいいよ」
「苦いですよ」
「うん、苦いな」
「でしたら……」
 冬馬はスプーンを置き、一つ息を吐いた。
「あのよ、渚。別のでもいいようなメシを出したのか?」
「……」
「確かにこれは焦げてて苦いけど、一生懸命作ったんだろ?」
「……はい」
「ならいいじゃないか。折角がんばって作ったんだ。美味いに決まってる。もし渚がこれを失敗だと思うなら、次に生かせばいい」
「……はい」
 ふっと冬馬の頬が緩む。
「次もがんばれよ」
「はい」
 グラタンは苦かったけど、先生の優しさがとても嬉しくて、暖かくて、私はほんの少しだけ泣けた。
 麦茶の力を多いに借りて何とか黒いグラタンを食べ終えると、渚は食器を洗い始めた。
「ダメだなぁ、私。がんばらなきゃいけないと気ばっかり急いて、中身が何も伴っていないんだから」
 コップを拭きながら溜め息一つ。
「美味しいの食べさせたかったのにな……」
 明日はちゃんとしよう。
 洗い物を終えると渚は書斎に入った。もう冬馬は酒を呑みながら一心不乱に執筆をしている。渚は少し下がったところに座り、その背を見詰めていた。
 こういうの、何か久しぶり、落ち着くなぁ。
 何もしないでじっとしているのは暇なので、本棚から一冊拝借し、読み始める。
 へぇー、先生こんなのも書くんだ。
 内容はある貴族が没落しながら世を嘆くと言うものであったが、濃密な心情描写が巧く書かれており、なかなかの短編だった。
「それ、面白い?」
 不意の冬馬の声に渚は慌てて顔を上げる。
「はい。とても面白いですよ」
「お世辞はいいよ。それ、デビューした頃の作品だから、あまり巧くないよ」
「そんなこと無いです。主人公が悲観しつつ世の中を風刺していく姿が、とてもいいです。先生、もっと自信を持って下さいよ」
「自信ねぇ……」
 自嘲気味に冬馬の口の端が歪む。
「ま、それはそれとして。渚、仕事が一段落したから少し呑まないか?」
「はい。少し待っていて下さいね」
 渚は中座すると台所からコップを持ってきた。冬馬はそれに嬉しそうに注ぐ。
「あ、先生。注ぎ過ぎです」
「大丈夫だって、このくらい」
「むぅ〜」
 八分目まで注がれても、呑めないよ。
「ま、今日もお疲れ様」
「お疲れ様です」
 軽くグラスを重ね、二人共くっと一口呑む。
「うぅ〜、やっぱり喉が熱いです」
「でも前よりすんなり呑めたみたいだけど?」
「そうですね。言われてみれば確かに」
 お酒に慣れたのかな?
「慣れれば味もわかるだろ?」
「でも辛くて、今一つ……」
「じゃあ、台所から塩持ってきて」
「お塩ですか?」
「そう」
 何に使うのかよくわからなかったけれど、とりあえず言われた通りに私はお塩を持ってきて、先生に差し出した。
「あのな、塩を舐めてから呑むと甘くなるんだ。ほら、こうやって呑んでみな」
 私は先生に倣い、お塩を舐めてから呑んだ。
「あっ、甘い!」
「だろ?」
「先生物知りですね」
 美味しくて美味しくて、調子に乗って何杯も呑んでいたら、段々頭がぽーっとなって、気持ちよくなってきた。
「渚、呑み過ぎだよ」
「そんなこと無いですー」
「いや、もうやめておけ」
「大丈夫ですよー。もう、先生は心配症なんですから。でも私、そんな先生が世界で一番大好きです」
「うわっ、渚。ちょっ……」
 渚は急に冬馬に飛びつき、唇を重ねた。
 えへへ、先生照れてる。カワイイなぁ。
 暴走はそれからしばらく続いた。