八月十九日 日曜日

 目覚めるともう七時だった。昨日は夜中の一時くらいまで冬馬を待ち続けていたのだが、結局帰ってはこなかった。
「先生、帰ってきてるかな?」
 寝惚け眼を擦りながら寝室を出て、玄関へ向かった。もう少しだけ眠っていたかったが、もし冬馬が帰ってきていれば味噌汁を作らなければならない。
「……」
 玄関に冬馬の靴は無かった。
「先生、まだ瑞穂さんと一緒なんだ」
 心配より先に、切なさが胸を締めた。
 顔を洗い、洗濯したてのメイド服に着替えても、何だか調子が今一つぱっとしない。無理に明るく振舞おうとしても、一人だとそれも虚しい一人芝居。
「いただきます」
 また今日もパン一枚程度の軽い朝食。いつ冬馬が帰ってきてもいいように、味噌汁を作っている上に、小腹を空かせておく。
「……先生、いつ帰ってくるんだろう?」
 他人様の家で感じる孤独は、ひどく辛い。味気無いパン、無音、時折そよぐ風。そのどれもが孤児院にいた頃の自分を想起させる。
「うっ……」
 込み上がるものを何とか抑え、二度三度と首を横に振る。
「先生、教えて下さい。どうして先生を想う程に切なく、苦しくなるんですか。どうしてこんなにも先生を……」
 その先は言葉が見つからなかった。
 朝食を終えるとリビングの掃除を始めた。普段使う場だけあり、まめに掃除をしないとすぐに汚れが溜まる。渚は絨毯を丁寧に、まるで自分の迷いがそこにあるかのように綺麗に掃除機をかける。
「……はぁ」
 ふとスイッチを切ると渚は溜め息をついた。
「自分に正直になれ、か」
 不意に新堂の言葉が蘇る。あの日言われたことが的を得ているような気がして、渚はもう一度大きな溜め息をついた。
 確かに私は自分に嘘をついているかもしれない。認めてはいけない想いから、無理して目を背けている。でも、そうしなければ私はここにいられない。先生の側に、いられない。だけど……。
「もう、限界なのかも……」
 瑞穂さんが羨ましい。私の知らない先生をたくさん知っていて、羨ましい。本当の意味で先生を理解できていて、羨ましい。
 私だってもっと先生を知りたい。もっと先生の側にいたい。お喋りして、褒められて、笑い合いたい。そして……泣きたい。
 そんな自分がワガママに思え、醜い。けどこれが私なんだ。ありのままの私。だから、私は先生の前で正直になれない。見せたくはないから。知られたくは無いから。
「でも、知ってもらいたいな……」
 不意に渚の目の前が明るくなった。
 ああ、そうか、そうなんだ。これが恋なんだ。誰かがより特別に想え、自分のワガママを通し、一人よがりに苦しみ、そうして本当の自分と飾る自分の板挟みの状態。だけど、そんな自分を愛しく思う。それが恋なんだ。
「私は、先生に恋してる。これが本当の、私」
 きゅっと胸元を飾る割れたハートを大事に握り締め、うつむく。
「これが恋か、だけど……」
 ふわりと視界が揺れ、落ちる。
「私には無理だよ。だって私はメイド。先生を大切に想っても、大き過ぎる想いは重荷になるだけなんだもん。従順に生きなきゃならないのに、自分の想いなんて……」
 大切に、せめてそれだけが自分に許せる想いの形のように割れたハートを握り締めながら、渚はむせび泣いた。
 一頻り泣いて溢れる想いが落ち着くと渚は外へ出た。いつまでもこのままではいたくなかったし、これ以上冬馬の匂いのする場所にいると自分が保てなくなってしまいそうで、どうにか気分を変えたかった。
 初めてこの町に来た時よりも蝉の声が減ったように感じるのは、きっと思い過ごしではないだろう。夏が刻一刻と過ぎている。私もこの夏、少しだけ変わった。
 いや、私はまた嘘をついた。本当は大きく変わった。見習いから夢にまで見た正式なメイドになったし、この町を知ったし、先生を知った。そして私を知った。何も、そう自分すらも知らなかったのに、今はほんの少しだけ自分を知り、好きになれた。
 肌を焼く日差しを縫うようにそよ風が流れ、渚を包んだ。
「メイド、か……」
 常々憧れていた存在がまさか自分が苦しめるとは思ってもいなかった。時折「もし私がメイドじゃなかったら……」なんて考えてしまうのは、きっと恋のせいだ。
 だけどもしメイドじゃなかったら、私は一体何をもって私としていられるんだろうか。身寄りも無く、財産も無く、一人で生き抜く力も無い私が、どうして生きられるのだろう。
「バカみたい」
 外に出ても全然気分が晴れない。辛い想いをほんの少しの間だけでも忘れていたいのに、それができない。
「うさぎさんに会いに行こうかな」
 渚の足は小学校へ向いた。
 ウサギ小屋の前は数人の小学校で賑わっていた。渚はその輪に入ろうと近づいたが、すぐその足が止まった。
「あ……」
 その輪の中心には美帆がいた。数日前まで彼女をいじめていた子供達と、楽しげにお喋りをしながらうさぎと戯れていた。
 輪の中心で明るく笑っている美帆を見ていると、喜ぶべきことなのに何故か寂しく思えそこに近づくことがひどくためらわれた。
 もう私がいなくても、美帆ちゃんは……。
 ゆっくりと遠ざかる。誰にも気づかれないようにゆっくりと、それでいて足早に。
 私はきっと、どこかで嫉妬しているんだ。友達にかこまれて笑っている美帆ちゃんを、私は……。
「嫌だな、こんな私。こんな私、ダメだよ」
 本当はみんなと一緒に笑い合いたいのに、できない。私もうさぎさんと戯れたいのに、そうしたいのに……。
 寂しい。
 行くあての無くなった渚は冬馬が帰宅していることを願いながら、アパートに戻った。
 が、出た時にかけた鍵はそのままかかっていた。しかしもしかしたらと思い中へ入ってみても、やはり冬馬のクツは無かった。
「先生、どこなの……」
 ふとある疑問が渚の中で頭を擡げた。
「私、先生が帰ってきてたら何をするつもりなんだろう?」
 ふらふらとソファに近付き、腰を落とす。そして頭の前で手を組み、じっくりと何がしたいのか考えを巡らす。
「先生が帰ったら……」
 答は、見つからない。お喋りをしたいとは思っても、それでこの胸に溢れる想いを言葉にできそうにはなかったし、側にいたいと思っても、どんな顔をすればいいのかわからない。
「私、何をしたいんだろう。本当は何を望んでいるんだろう」
 このままではいたくないと思いつつも、何をどうしたいのかわからない。そしてどこかこのままでいないと、世界の全てが足元から崩れてしまいそうで、何もしたくない。
「また私が、分かんないよ……」
 やりきれない。何かを思い、行動するのは自分の意志によるものなのに、その自分が何を欲しているのかわからないなんて……。
「……おなか空いた」
 思い悩み、涙が出そうになっても腹は減る。渚はちょっと格好悪く思いながら台所に立ち、昼食の支度を始めた。
 味噌汁をいつまでも放っておけないので、昼食は和食中心のメニュー。渚はリビングのソファに座り、手を合わせる。
「いただきます」
 出来はまあまあ。けどあまり美味しくない。
「……寂しいな。先生、帰ってこないのかな」
 ちゃんと先生、ゴハン食べてるのかなぁ。昨日はちゃんと寝たのかなぁ。お酒とか呑み過ぎてないかなぁ。
「むぅ、気になる〜」
 気になっても箸は止まらない。
「このお味噌汁、先生のために作ったのに」
 いつもなら二日酔いの先生が美味しいと言ってくれるお味噌汁も、一人で啜ると寂しい。二つ作る目玉焼きも、一つしか作らないから物足り無い。
「うぅ〜、先生のバカ。何でいないの?」
 悪口を言えば後ろから現れるような気がしたが、何も無かった。
 昼食を終え、食器を洗うと渚は洗濯機を回し始めた。洗う物は自分の物ばかり。冬馬がいないから当然なのだが、何となく一人暮らしをしているようで虚しい。
 脱水を終えた洗濯物のシワを小気味よい音と共に伸ばしながら、ベランダに干していく。今日も絶好の洗濯日和。しかし……。
「はぁ……」
 渚の心は湿ったままだった。
 洗濯物を干し終えると、もう何もする気が起きなかった。渚はソファに座りながら次々とチャンネルを変えるが、どこにも定まらず、ついにはテレビを消してソファに寝転がり、大きく伸びた。
「どこにいるの、先生……」
 待てど暮らせど帰ってこない。こんなことは初めてだ。まさかこんなに長い間一人でいなければならないなんて思ってもいなかった。
「誰でもいい、誰かに会いたいよ」
 会って話をしたい。とりとめの無い話でも何でもいい。とにかく一人ではいたくない。一人は、余計なことを考えてしまう。
 渚は飛び出るように外へ出た。
 午前中よりもやや気温が上がっているため陽炎が立ち昇っている。まるで自分の心のようだと考えながら、一路商店街へ向かう。
 商店街のアーケードが見え始めた頃、ふと渚は足を止めた。各店主と何か話をしようと考えていたのだが、用事もないのにそんなことをするのは、さすがに失礼極まりない。
「でも、もしかしたら先生がいるかも」
 帰りかけた足をもう一度商店街へ向けた。
 休日の商店街は小さいながらもそれなりの活気がある。暇を持て余す者、生活に必要な物を求める者、様々な人々が集まっている。
 その中で渚は一人だった。
「知ってる人、誰かいないかな」
 ふらふらとあっちへ行き、こっちへ行き、商店街を隅から隅まで歩いてみるが、やはり誰もいない。
「一人、か」
 歩くのに疲れ、商店街を出ようとしたら、不意に声をかけられた。
「おう、メイドさん」
 店外で働いていた酒屋の店主が渚に向かって手を挙げた。
「どうも、こんにちは」
「こんにちは、今日はメイドさん一人かい?」
「はい、そうなんです。先生、昨日外出したきり姿を見せないので」
「心配で捜してるってわけか」
 こくりと渚が頷く。
「そら心配だよな。でもまぁ先生だってガキじゃねぇんだ、帰ってくるよ」
「そうなんですけど……」
 沈み込む渚に店主が笑いかける。
「よし、わかった。もし先生に会ったらメイドさんが捜してるって伝えておくから」
「すみません、お忙しいのに」
「いいってことよ。ま、あまり気にするな」
「はい。それでは」
 店主の笑顔を一礼して返すと、渚は商店街を後にした。
「気にするな、か。うん、その通りだよ」
 だけどそれができない。何かしらにつけて、いや、何をせずとも冬馬を強く想ってしまう。
「あんなに誰かに会いたいって思ってたのに」
 今はより強く孤独を感じる。優しさに触れたせいで、余計に辛さが際立つ。
「苦しいよ……。どうすればいいの……?」
 気が付くと公園に着いた。渚は人がいない公園のベンチに腰を下ろすと大きなため息をついた。
「先生、本当にどこで何してるの?」
 蝉の声が遠くに聞こえ、視界が狭まる。
「恋って、こんなに苦しいものなんだ……」
 胸元から取り出した割れたハートを握るとほんの少しだけ暖かく、切なくなった。
「私はどうしたらいいんだろう……」
 自分に正直になりメイドを捨てるべきか、それとも自分を殺してメイドであるべきか。
「私はどうしたら……」
 両手で顔を覆う。目を固く閉じる。
「私は……」
 女であるべきか、メイドであるべきか。
「……そんなの、決まってるじゃない」
 メイドであるべきだ。私は今までその道を歩いてきた。それしかなかったから。だけどそれはもう私の全てとなっている。
「今になって変えられるわけないじゃない」
 不意に頬が緩み、掌の中で優しげな微笑が生まれた。
「そうだよ。だって私はメイドとしてじゃなければ、生きられないんだから」
 顔を上げ、太陽を仰ぐ。目は閉じたままだけど、痛い程に明るかった。
「捨てよう、この想い。先生を誰よりも好きで、一人占めしたい私を。そうしたらきっと明日は笑える筈。今は辛くても、きっといつかは笑える筈だよ」
 だけど、果たしてそれができるのだろうか。今の言葉の通りにしなければと思うものの、本当に正しいのだろうか……。
「道は見えているのに……」
 どうして進めないんだろう。
 滲んだ想いが太陽に溶けた。
 公園を後にすると渚はまたあてども無くさまよい始めた。アパートに戻れば冬馬がいるかもしれないが、今は会いたくなかった。
 歩き、立ち止まり、溜め息し、また歩いていると一台の公衆電話が目に入った。
 お姉ちゃんなら、きっと何か……。
 駆け寄り、テレフォンカードを入れて会社の番号をプッシュする。受話器にすがりながら、渚は無気質なコール音に耳を寄せていた。
 が、相手が出る前に受話器を戻した。今はお姉ちゃんはおろか、みんな仕事をしている。そんな中、私の泣き言を聞かせたくない。
 ああ、本当に私は弱い人間だ。一人で思い悩み、どうしようもなくなったらすぐに誰かにすがろうとする。解決する術があっても、それを行おうとしない。
 でも、やらなきゃ。今やらないと、きっといつまでもダメなままだ。
 幾らか歩いて橋の欄干の中央まで行くと、渚は体をもたせながら川を見た。小さくて薄汚れている川。流れもゆったりとしている。
「この想い」
 渚はネックレスを外し、右手に持つ。
「捨てなければ私はダメになる」
 すっと右手を欄干の外へ差し出し、
「さようなら、私の恋……」
 右手を開いた。
 するりとネックレスが手から滑り、川へと落ちていく。そして音も立てずに、消えた。
「これで、よかったんだ。これ、で……」
 先生との大切な思い出の証。私の恋の証。静かに消えたそれはもう二度と見つかることは無いだろう。
 ──本当によかったのだろうか?
「う、うぅ……」
 ──捨ててよかったのだろうか?
「私、私……」
 渚の瞳から涙が溢れる。
「何で、ダメなの……?」
 捨てれば全てが清算されると思ってたのに、何故こんなに辛いんだろう。悲しいんだろう。苦しくて切ないんだろう。
 欄干に突っ伏し、渚は溢れる涙を止めようともせずに流し続けた。幾ら泣いても返ってこないことはわかる。だけど、もうとにかく自分のしたことが愚かに思え、泣いた。
 不意に誰かがそっと私の肩に手をかけた。
「佐倉さん」
「先、生……?」
 驚いて振り向くと、そこには先生がいた。
「先生、私……」
 恥ずかしさも何も無く、私は先生の胸の中に飛び込んだ。そんな私を、先生は優しく抱き締めてくれる。
「どうしたんだ、一体?」
「私、大切な物、捨てちゃいました。先生との思い出、捨てちゃいました……」
「思い出?」
「私、自分がわからなくなって、それで……」
「佐倉さん、とりあえず落ち着いて。それから何がどうなったのか、ゆっくり教えてくれ」
「はい……」
 私はごしごしと涙を拭い、先生から離れると、大きく息を吐いた。
「ネックレス、捨てちゃいました。先生とお出掛けした日のあのネックレス、この川に捨てちゃいました……」
「えっ?」
「昨日からずっと一人で、それで何だか自分がもやもやしてわからなくなって。そんな自分を捨てるように……」
 渚の瞳にまた涙がじわりと滲む。
「捨てた後に気付いたんです。あれは捨ててはいけない大切なものだと……」
「……わかった。ここで待ってて」
「えっ?」
 そう言うと冬馬は川の中に入り、消えたネックレスを探し始めた。
「先生……」
「今見つけてやるから、少し待ってろ」
 水深は冬馬の膝くらいまでしかないけれど、それでも汚くて濁っているため容易には見つけられそうにはなさそうだ。
「先生、やめて下さい」
「待ってろってば」
 必死に冬馬は川をさらう。
「もういいですから」
「いいわけないだろ」
「先生?」
「佐倉さんの大切な物なんだろ? 捨てて涙が出る程の物なんだろ?」
「……」
「だったら、見つけるさ」
 また冬馬は川底を見詰め、探し始める。
 私、何やってるんだろ。私のせいでまた、先生に迷惑かけている。私のせいなのに、先生が一生懸命になっている。
 私は何をしているの……?
 また渚の頬を涙が伝った。
 日が暮れかけても冬馬はまだ川をさらっていた。川が濁っているから、夜になれば発見は絶望的だ。だが冬馬は諦める素振りも無く、一心不乱に探し続ける。
「先生……」
 涙の枯れ果てた渚も、ようやく川に入った。一緒になって無言で探す。
 早く見つけて、先生をやめさせないと。
 だが幾ら探せど一向に見つからない。
「先生、もうやめましょう」
「……」
「もういいですから、やめて下さい。お願いしますから……」
 だが冬馬は何も応えなかった。渚はその場に崩折れる。少し冷たい水が体に染みた。
「先生〜」
 渚は冬馬の足元を引っ張る。
「お願いですから、もう。あれはもう、どうでもいいですから」
「……どうでもよくはない。あれは俺にとっても大切なものなんだから」
「えっ?」
「佐倉さんのと俺のとで一つになるんだ」
「先生……」
「だから、見つけなきゃいけないんだ」
 もう見つからなくてもいい。先生には悪いけど、もうどうでもよかった。だってもう、その言葉を聞けただけで私はよかったから。
 私は立ち上がり、そっと先生の肩に手を添え、小さく首を振った。
「もう、いいです。本当に。私、先生からそのお言葉を聞けただけで、充分です」
「俺はよくない」
「えっ?」
「俺は心からの佐倉さんの笑顔を見たいんだ」
「先生、でも私は」
「いいから、黙って……あっ!」
 冬馬が高々と挙げた右手には、ネックレスがあった。
「見つかったー」
「先生……」
「泣くのは後だ。とりあえず上がろう」
「……はい」
 川から上がり、ぐしょ濡れのまま渚と冬馬は家路を辿る。
「見つかってよかったな」
「はい。そして、自分の心も一緒に……見つけました」
 渚は掌の中のネックレスを握り締める。
「先生、少しお話してよろしいですか」
「いいけど、何を?」
「私のことです」
「……ああ」
「私、孤児だったんです。父も母も記憶に無くて、幼い頃は孤児院で育ったんです」
「えっ?」
「孤児院では、いつも一人でした。何故だか周りの人達が怖くて、近寄らないよう一人でいました。とても、寂しかった」
「……」
「五歳の頃です、今の会社に引き取られたのは。今のメイド長が私をそっと抱き締めて、手を繋いでくれて……」
 一言一言紡ぐ度、心は澄み渡っていく。
「会社に入ってから私は学校に行かず、毎日メイドとしての教育を受けました。不思議と辛いと思ったことはありません。きっとみんなが優しく接してくれたからだと思います」
 渚は大きく息を吐く。
「だから私は、メイドとしての私しか知りませんでした。普通の女の子のようにオシャレして、遊んで、友達といるなんてことは全く無く、ただお仕えする日のためだけに、そう、先生の許で働くためだけに生きてきました」
「佐倉さん……」
「でも、先生と一緒にいるうちに私は段々と変わりました。知らなかった世界に飛び込み、色々なことを知り、私を知りました。恋を、知りました」
「……」
「私は、先生が好きです。御主人様に対してこんな想いを抱くのはいけないことですけど、一人の女として好きです」
 立ち止まること無く、互いに顔を見詰め合うこと無く、ただ淡々と。だけど渚にはこれでよかった。もう本当の自分を冬馬に伝えられたのだから。
「だから先生、今の言葉を忘れて下さい。私、今のを最初で最後の私とします、これからはメイドとして……」
「ずるいよ、そんなの」
 突然冬馬が立ち止まった。
「俺だって佐倉さんが好きなんだ。今の言葉、忘れられるわけないじゃないか」
「先生……」
 また冬馬は歩き始める。もうアパートまであと少しだった。
「少し前から俺は佐倉さんを一人の女として見ていたよ。好きと言う気持ち、抑えきれなくなっていたよ」
「ダメですよ、先生。所詮私はメイドで先生は御主人様なんですから、だから……」
「無理するなよ。俺にとって佐倉さんはもうただのメイドじゃないんだ。俺だけのメイド、いや、女なんだ」
「……よろしいんですか、私で」
「佐倉渚だからこそ、だ」
 その時、私は心からの笑顔を浮かべた。
 帰宅するとすぐに風呂を沸かした。冬馬が入っている間、渚は丁寧にネックレスを洗う。
「私の大切な想いが、また大きくなった……」
 嬉しくて、どうしようもなく嬉しくて、何だか切なくなった。
 渚も風呂に入り、冷たく汚くなった体を元に戻すと、夕食となった。何も豪華ではないけれども、暖かい食卓。
「やっぱり、家でのメシは美味いな」
「えへへ、ありがとうございます」
「そう、その顔だよ」
「何がです?」
「メシ食ってて美味いと思えるものがさ。笑い合って楽しく食ってこそだろ」
「はい」
 ふと渚は箸を止めた。
「先生、一つ訊いてよろしいですか?」
「何?」
「どうして私だったんですか?」
「……わからん」
 冬馬も箸を止める。
「気付いたら佐倉さんだった。これ以上は言葉にならない。理由付けは陳腐だ。これじゃダメかな?」
「いいえ、充分です」
 食事が終わると冬馬は書斎に入り、渚は洗い物にとりかかった。
「言葉にできないか。確かにそうだよね」
 どうしてなんて愚問だったのかもしれない。心通じ合えたのだから訊かなくてもよかった。でも、確かな絆を知りたかった。
「やっぱり私は、弱いなぁ」
 だけど、それでいいのかもしれない。弱い自分が等身大の自分なんだ。これが私なんだ。
 洗い物を終えると渚は書斎に入った。案の定、冬馬は酒を呑んでいた。渚はそっと冬馬の側に座る。
「こうして俺の側に佐倉さんがいるの、久しぶりだな」
「先生、お忙しかったから」
「……いや、忙しかっただけじゃないんだ。本当は、逃げていたんだ」
「逃げていた?」
「そう。俺は佐倉さんから逃げていた。女として意識し始めた頃から、こんな俺に付き合わせたらいけないと……いや、正直になろう。もし佐倉さんと一緒になったら不幸にしてしまうと思い、俺は逃げていた」
「な、何でそう思っていたんです?」
「俺は弱い人間だから。ワガママで、気が小さくて、アル中で……」
「でも私は、そんな先生の弱さも含めて好きです」
「……」
「私だって同じように弱いです。でも、先生と一緒ならきっと、進めない道も進めます。どんなに苦しくても、笑えます」
「佐倉さん……」
 冬馬は渚を抱き締めた。強く、その存在を確かめるようにしっかりと。
「先生、今だけでいいですから渚と……」
「わかったよ、渚」
 二人の唇が触れ合った。
 怖くて、恥ずかしくて、でもそれだけじゃなく、確かに喜びが胸を激しくついていた。
 肌が触れ合う度にそれは強くなり、私はもうどうにもならなくなり、先生に全てをまかせた。甘い囁きに私は痺れる。
 熱い先生の肌が私を心から熱くさせ、滾らせる。抱き締めれば返してくれる先生の優しさが嬉しくて、思わず涙が溢れてきた。
「泣くなよ」
 そう言いながら先生は丁寧に私の頬を伝う涙を指ですくってくれる。舌を絡ませ合うキスは恥ずかしかったけど、今はただ甘い。少しお酒の味がしたけれど、それで先生に抱かれていることを強く意識した。
 ああ、好きな人にこうされることが本当の喜びなのかもしれない。言葉では満たせない想いも、こうすれば直に伝わる。
「渚、いいか」
「……はい」
 頷いたけれど、いざその時はやっぱり怖く、少し震えてしまった。けれど先生が優しく私の髪を撫でてくれたおかげで安心できた。
 先生と一つになれた時は痛くて、本当に痛くて、でもそれ以上に嬉しく、また涙が出た。心配そうに私の顔を覗く先生が愛しくてたまらなくて、私は何もかも堪えながらただ一言「大丈夫です」と微笑みながら言った。
 夢ではない確かな想い。胸にあるネックレスも熱い。本当にこれで私は、私は……。
 先生に抱き締められた瞬間、私の世界は白に染まった。
 行為を終えると渚と冬馬は裸のまま一つの布団に寄り添いながら潜り込んでいた。
「先生。私、ここにいていいんですね?」
「当たり前だろ。渚はずっと俺の側にいてもいい。むしろ俺が頼みたいくらいだ」
「先生、まだ渚って言ってくれるんですね」
「嫌か?」
「いいえ、嫌なわけありません」
 私はまた先生と抱き合った。
 割れたハートが、ようやく一つになった。