八月十八日 土曜日

 雀の囀りに起こされ、時計を見ると六時半だった。
「今日はいつもより、少し早起きだ」
 昨日は夜遅くまで先生に付き合わなかったからだ。早起きできて少し爽快な気分になれたけど、何かちょっと……寂しい。
「……」
 日に日に強くなる切なさ。それが何なのかわからないまま、気持ちは膨らむ一方だ。
「……むぅ、朝からこんなんじゃダメだよ。早く支度しよう」
 勢いよく布団から起き上がり、頬を叩いて気合を入れると渚は洗面所へ向かった。
 洗顔を終えると着替えを済ませるととりあえず食パン一枚程度の朝食を採る。
「さてと」
 次にいつ冬馬が起きてもいいように、味噌汁だけを作っておく。今日はモヤシと卵を具に使う。ここに来て味噌汁を作るのは本当に上達したと、渚自身思う。
 それから掃除に移る。まだ冬馬が寝ているから掃除機は使わず、窓拭きやハタキがけを中心に行う。
「うん。綺麗になった」
 一頻りそれも終えると、今度は洗濯機を回し始めた。全自動なのでその間は小休止をかねてソファに座りながら、テレビを観る。
「へぇー。またあの人、つかまったんだ」
 芸能ニュースはまだ続く。
「ええっ、あの人が結婚?」
 信じられない……。
「あ、あの料理美味しそう」
 などと時間を潰していると、洗濯機が止まったので、渚はそれらを干し始める。外は今日も天気がよく、絶好の洗濯日和。
「暑いけど、気持ちいい」
 洗濯物を干し終えると、丁度書斎の襖が開いた。
「おはよう」
「おはようございます、先生」
 先生を見た途端、私の胸はぽうっと熱くなって、いつもよりも笑顔になった。
「機嫌よさそうだね。何かあったの?」
「いえ、何も」
「そう。ああ、麦茶くれないか」
「はい」
 麦茶を届けると、冬馬は一息で飲み干した。
「ふぅ、やっと人心地ついた。いや、すごく暑かったから、寝てても寝苦しくてな。おかげでいい夢から覚めちまったよ」
「どんな夢だったんです?」
「佐倉さんと辛島が裸で俺に迫る夢」
「そ、そんな夢見ないで下さい」
「二回目だったから何かこう、進展があると思ってたら、まさかあんな……」
「思い返さないで下さいよぉ」
 二回も見ないでよ。恥ずかしいなぁ。
「いいじゃないか、夢なんだから」
「夢でも何でもダメですってば」
「……ケチ」
「ケチじゃないですよ」
「わかった。じゃあこうしよう」
 冬馬は大きく頷く。
「きっとそんな夢を見るのは俺が欲求不満だからであって、一度本物の裸を見れば……」
「見せませんよ」
「……早いな」
 もう、朝からエッチなことばかり言って。
「さ、先生。ゴハンはどうします」
「すぐ食うから、作ってくれ」
 朝食はすぐにできあがった。胃に負担をかけないような和食は、昨日大分呑んだであろう冬馬への渚の配慮だった。
「あー、味噌汁が美味い」
「えへへ、ありがとうございます」
「いや、本当に。昨日は大分呑んだから、なおさら美味く感じるよ」
「瑞穂さんと呑んでいたんですよね?」
「うん……」
 冬馬の箸が止まった。が、またすぐに動き出した。しかし先程よりも、ずっと遅い。
「先生がこうでしたら、瑞穂さんもきっと今頃は二日酔いでしょうね」
「そうだろうな」
「でも呑み過ぎはダメですよ。お体壊します」
「うん」
 何か先生、元気無いなぁ。
「先生、何かまだ辛そうですね」
「まだ昨日の酒が少し残ってるからな」
「胃薬、用意しましょうか?」
「いや、いらない。メシ食って麦茶飲んで、休んでいれば何とかなるだろ」
「そうですか」
 ふと会話が途切れ、何となし渚も冬馬も無言で箸を進める。
「ごちそうさま」
「先生、おかわりはいらないんですか?」
「もう腹いっぱいだよ。それにこれ以上食うと、吐きそうだ」
 麦茶を持って、冬馬は書斎に入った。
 食事を終えると渚は洗い物にとりかかった。
「先生、本当に具合悪そう。瑞穂さんも大丈夫なのかなぁ」
 不意にちくりと心が痛んだ。
「……先生と瑞穂さんか。お似合いの二人、だよね」
 また、ちくり。渚は手を止めた。
「……どうしちゃったんだろ、私。何で先生と瑞穂さんのこと考えると、こんなに苦しくなるんだろう?」
 疲れてるのかな。
 渚は溜め息をつきながら皿を拭いた。
 洗い物を終えると渚は一声かけてから書斎に入った。少しタバコ臭い書斎が何故か懐かしく、そして愛しく感じる。
「先生、これからお買い物に行きますけど、何か必要なものはありますか?」
「あ、行くんなら俺も行くよ。ちょっと小説に詰まっていてね。気分転換に散歩でもしようかと思ってたんだ」
「そうですか。それではおサイフ取ってきますから、支度しておいて下さいね」
「俺はいつでも行けるよ」
 渚がサイフを取ってくると、二人は揃って外へ出た。
 じりじりと上から下から熱気が肌を焼く。特に美白に気を遣っていない渚も、少しだけ肌の心配をしてしまう。
「暑いなぁ」
「本当ですね。それにこんなお天気だと、日焼けしちゃいます」
「あ、やっぱり佐倉さんもそう言うの、気を付けてるんだ?」
「一応は。でももう遅いかもしれません。お風呂とかの時、日焼けしてるの目立っていますから」
「日焼け止めクリームとか塗らないの?」
「ええ。日焼けって、直接肌に紫外線が当たらなくても、目で光を吸収したらなるらしいとテレビで観て以来、やめました」
「そうなんだ」
「はい。何でも目で光を吸収したら脳が肌を黒くするように指令を与えるらしいんです。それに」
「それに?」
「夏は少しくらい日焼けした方が気持ちいいですから」
「そうだな。俺も同感だ。夏に日焼けするのが肌に悪いと知りつつも、海水浴に行ったら真っ黒になるまで焼いちゃうしな」
「さすがにそこまではしませんけど。あと、そこまで気を遣うと、気疲れしそうなので」
「女の子は大変だなぁ」
「えへへ、そうなんですよ」
 額に滲んだ汗を、渚は手の甲で拭った。
 商店街に着くと八百屋から回り始めた。
「佐倉さん、今日は何にするの?」
「今日は、親子丼です」
「美味そうだな。期待しておくよ」
「えへへ、がんばります」
 何だろう、とても嬉しい。前は同じこと言われても、こんなにはならなかったのに。
 最近はまるで心が裸になったように感情が全面に出てくる。そのくせ、心が見えない。
「でも佐倉さん、本当に勉強してるんだね」
「えっ?」
「ほら、前より色んな料理が作れるようになっただろ」
「ええ、まあ」
 うぅ、何か気恥ずかしい。
「俺もがんばらないとな」
「先生は私よりがんばっていますよ」
「そうなのかなぁ?」
「そうですよ」
「はは、ありがとうな。あーあ、辛島も佐倉さんを少しは見習って欲しいよ」
「瑞穂、さん……?」
「そう、辛島。あいつもちゃんとすればいい女なんだけど、いかんせんああだから……。困ったもんだよ」
「で、でも瑞穂さんは瑞穂さんなりにしっかりやっていると思いますよ」
 私は変になってしまったのだろうか。瑞穂さんをかばうのが少しためらわれ、またそう言うのも辛かった。
「そうかぁ?」
「そうですよ。瑞穂さんも……」
 胸がまた、ちくりと痛んだ。
「辛島が、どうかしたの?」
「瑞穂さんもきっと、先生と同じように陰で努力をする人なんですよ」
「そう信じたいよ」
 それから各商店を回り、一通り食材を買い集めると、二人は家路を辿った。
「荷物、持つよ」
「あ、大丈夫です」
「いいからいいから。重そうだし」
 先生は私から強引にビニール袋を奪った。
「あの、本当に大丈夫ですから。先生がそんなことしちゃ、ダメです」
「何で?」
「折角ここに私がいるんですから。先生は昨日の疲れも残っているでしょうから、もっと私を使って下さい」
 冬馬はそれを受け、ふっと口の端を歪めた。
「佐倉さんも疲れてるみたいだから、何だか放っておけないんだよ。それに、これは俺が気まぐれで持ちたくなったの」
「……」
「不満?」
「……先生」
 渚は冬馬の顔を覗き込むと、
「ありがとうございます」
 ぱっと顔を弾けさせた。冬馬は少し照れたように目線を外し、微笑む。
 アパートまではもう少し。冬馬も渚も早く帰って冷たい麦茶を飲みたかった。と、その時、何かが渚の目の前を掠めて落ちた。
「蝉だ……」
「この暑さにやられたんだろうな。ま、そうじゃなくても二週間くらいしか生きられないから、寿命かな?」
「何だか、可哀想ですね」
「仕方ないよ。こいつだって夏を精一杯生きたんだ。悔いは無いだろ」
「ですけど……」
 さっと一陣の涼風が二人の脇を抜けた。
「私はうさぎさんの方が心配です」
「あっ、おい」
 渚は脱兎のごとく小学校へ駆け出していた。
「えへへ、うさぎさん、大丈夫ー?」
 渚はウサギ小屋の前にしゃがみ込む。
「もこもこだから暑いよねー。元気ー?」
 金網に指を差し入れると、うさぎが近付き、ぺろぺろと舐めた。
「うぅ〜、カワイイなぁ」
 今日は美帆達の姿が見えない。ウサギ小屋の前は渚一人だ。
「ああん、もう。そんなに舐めちゃダメだよ」
 きゅっと抱き締めたいよぅ。
「佐倉さん」
「ほらほら、エサだよ」
 渚は雑草を引き抜き、食べさせる。
「うぅ〜、カワイイ」
「佐倉さん」
 冬馬が渚の肩を叩く。が、渚は無反応。
「ねえねえ、これはどう?」
 もう一本、渚は雑草を与える。
「さーくーらーさん」
 もぅ、うるさいなぁ、先生。
「あっ、食べた食べたー」
「おい、佐倉さん。帰るぞ」
「わわっ」
 冬馬が力づくで渚を立たせる。
「先生、ダメですー」
「ダメなのは佐倉さんの方だ」
 ずるずると冬馬が渚をウサギ小屋から引きずり離す。
「さよーならー、愛しいうさぎさーん」
「うるさい」
 帰宅するなり、渚はリビングで小さくなりながら冬馬に麦茶を渡した。冬馬は無言で受け取り、一気に飲み干す。
「あの、本当にすみませんでした」
「……」
「もうしないよう心掛けていたんですが、つい我を忘れてしまい」
「……つい?」
 じろりと冬馬が渚を睥睨する。
「うっ……」
 先生、怖いよ。
「ったく」
 苛立たしげに冬馬が立ち上がる。
「長田が来たら、教えてくれ」
「……はい」
 冬馬は荒々しく書斎の襖を閉めた。
「また、やっちゃった……」
 うぅ〜、私のバカ。もうしないって決めてたのに。こんなことしてたら、先生に嫌われちゃうよ。
 溜め息を一つする度に幸せが一つ逃げると言うけど、私はそれでも後悔の吐息を止められなかった。
「……お洗濯物、取り込まなくちゃ」
 重い足取りで渚はベランダに上がった。
 洗濯物にアイロンをかけ終え、台所のステンレスを綺麗に拭いていると、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
 ぱたぱたと玄関へ急ぎ、ドアを開ける。
「あ、どうも」
 渚と目が合うなり、長田は会釈した。
「先生は?」
「書斎にいますよ」
「では、上がらせてもらいますよ」
「どうぞ」
 そのまま長田は書斎に入った。
 書斎の二人に冷たい麦茶を届けると、打ち合わせの邪魔にならないよう渚はすぐに退室し、台所の掃除を続けた。
「何か幾ら掃除しても、もやもやが晴れない」
 まだ心に先生を怒らせたことが引っ掛かっている。以前ならそれほど思い詰めることも無かったのに。
「……ダメだよ、しっかりしなきゃ」
 頬を叩く力が強過ぎて、少し痛かった。
 しばらくして長田が帰った。渚はそれを見送ると、また仕事に戻る。台所の方はあらかた終えたので、次は玄関。
 するとまた、チャイムが鳴った。誰かと思いドアを開けると、亜紀がいた。
「こんにちは、渚ちゃん」
「こんにちは。どうしたんです?」
「北川は、いる?」
「書斎にいますよ」
「悪いけど、呼んできてくれない?」
「わかりました」
 何だか今日は色んな人が来るなぁ。
「先生、失礼します」
 書斎に入ると冬馬が驚いたように渚の方を向いた。
「どうしたの?」
「亜紀さんがお見えです」
「亜紀さんが?」
「はい。先生を呼んでくれと」
「一体何の用だ……?」
 冬馬は亜紀の許へと向かった。渚はその間、リビングのソファに腰を下ろす。
 よかった。先生、もう怒ってないみたい。
 とりあえず安堵していると、亜紀が渚を呼んだ。渚も玄関へと赴く。
「何です?」
「ちょっと北川を借りるわね」
「そう言うわけだから、ちょっと出るよ」
「わかりました。それではお気を付けて」
 渚に見送られながら、二人は出て行った。
「……先生も大変だなぁ」
 一頻り感嘆すると、また玄関掃除を始めた。
 玄関の掃除を終えると渚は小休止としてリビングのソファに腰を下ろし、テレビを点け、ぼんやりと眺めた。今の時間は丁度どの番組も面白くないけれど、無音でいると余計なことを考えてしまいそうで嫌だった。
「……」
 だけどやはり何故か考え込んでしまう。自分のこと、冬馬のこと、そして瑞穂のこと。テレビの音がやけに遠く感じられ、視界が狭まる。
 と、今度は電話が鳴り響いた。渚は我に返り、急いで受話器を取る。
「はい、北川です」
「あ、渚ちゃん?」
「瑞穂さんですか?」
 一瞬、心臓が大きく跳ねた。
「そう。あのさ、……冬馬、いる?」
「今、亜紀さんと一緒に外出しています」
「亜紀さんと?」
 意外な答に瑞穂の声が甲高くなる。
「はい。少し前にここへ来て、先生と一緒にどこかへ行かれました」
「そうなんだ」
「ええ。何か先生に御用がおありなんですか」
「うん。あのさ、冬馬に伝えておいて。私、家にいるから来てって……」
 途端、渚の足が少しだけ震えた。
「はい、わかりました。帰り次第、伝えておきます」
「それじゃ、よろしくね」
 通話を終えると渚はふらふらとソファへ行き、崩折れるように腰を下ろした。
「瑞穂さん、先生に何の用事だろう」
 って、何だっていいじゃない。私がそんなこと気にしたら、ダメなんだから。
 主人のプライベートに首を突っ込むなとは、会社での教育の中でさんざん言われてきた。教えを受けていた時は当然だと思っていたものの、いざこうなってみると何だか気になり仕方ない。
「……何か、おなか空いてきちゃった。コーンスープでも作ろうかな」
 台所に立ち、コンロに火を点ける。インスタント物ではなく、手作り。コトコトと煮込んでいると、冬馬が帰ってきた。
「何か美味そうな匂いがするな」
「コーンスープを作っているんです。先生も飲みますか?」
「飲む。書斎にいるから、できたら持ってきてくれ」
 冬馬が疲れたような笑いを渚に向けた。
「先生、何だか具合が悪そうですね」
「うん、ちょっとな。でも大丈夫だよ」
「あの、無理はしないで下さいね。あ、それと瑞穂さんからお電話がありましたよ」
「辛島から?」
 びくりと冬馬の肩が震えた。
「はい。家にいるので来て欲しいとのことを、つい五分前に」
「……わかった。それ飲んだら行くよ」
 影を背負ながら冬馬は書斎に入った。
「本当に大丈夫なのかなぁ?」
 何だか最近、先生はひどく疲れていたり、苛々している。もちろんお仕事が忙しいせいなのだろうけど、それだけではない気もする。
「もしかしたら私、また何か先生を怒らせてしまったのかな?」
 それが何なのかは全く身に覚えが無かった。しかし自分が気付かないうちに相手を傷付けることなどままある。今日もきっとそうなのだろう。渚はぼんやりとそんなことを考えながら、コーンスープを煮込んでいた。
「いつもは明るい先生があんなになるなんて、やっぱり私のせいだよね……」
 大きな溜め息が出た。
「瑞穂さんだったら……、瑞穂さんだったらこうして先生を苛立たせることは無いんだろうな。何だかんだ言っても先生と瑞穂さん、仲良しだし」
 渚の頭に冬馬と瑞穂の顔が浮かぶ。二人は口ゲンカをしているが、それが逆に仲良さそうに見える。
「もしかしたら先生、瑞穂さんのことが好きなのかな。いつも側にいるのが瑞穂さんじゃなくて私だから、だから先生があんなになっているのかなぁ」
 コーンスープを掻き混ぜていると、自分の心までも一つに定まらなくなっていく感じがする。
「瑞穂さんだったら、先生とお似合いだもん。私も瑞穂さんのこと好きだし、先生と瑞穂さんが一緒になるのが一番いい形だよね」
 自分で言いながら空々しく感じてしまう。
「一番いい形、だよね。そう、だよ。でも、何で……」
 胸元からネックレスを取り出す。半分に割れたハート。渚はそれを悲しげに見詰めながら、両手で優しく握り締めた。
「先生……」
 両手の中にある小さなハートを握り締める程に、私の胸も締め付けられた。
「失礼します」
 襖を開けると冬馬が机に肩肘を立て、何か思い悩んでいる姿が目に入った。
「先生、コーンスープです」
「ありがとう」
 そっと渚はそれを机の上に置く。
「冷めないうちに召し上がって下さいね」
「ああ」
 何だかぎこちない。居心地が悪い。空気が重い。渚はその場に留まることもままならず、一礼するとすぐに書斎を出た。
「……何だろう」
 先生との間にはっきりと感じる妙な距離間。時に我を忘れそうになり、時に側にいても孤独を感じてしまう。
「……とりあえず、冷めないうちに飲もう」
 コーンスープはとても熱く、思わず舌先をヤケドしそうになったけど、私の心はやはりほだされはしなかった。
 しばらくして、冬馬が書斎から出てきた。空のカップを渚に渡し、そそくさと玄関で靴を履く。
「先生、お帰りはいつ頃の御予定ですか?」
「わからん。とりあえず七時になったら勝手に晩メシ食ってて」
「はい」
 パタンとドアが閉まり、一人残された渚はソファに腰掛けると床に視線を落とした。
「先生は瑞穂さんのとこ、私は家でお留守番」
 リズムに乗せてみるが、寒々しい。渚は一つ息を吐いた。
 先生が瑞穂さんのとこへ行っても私には何の関係も無い。そう思いたいのに、できない。思い込もうとする程、辛く寂しい。
 ……どうして?
「先生は瑞穂さんのことが好き。だから今も瑞穂さんに会いに行った。それでいいじゃない。それに私が何か思う必要は無いじゃない」
 そう自分に言い聞かせてみても、心の奥底までは届かない。
「……私、もしかして」
 そこまで言うと渚は頭を振った。もしそれを口にしてしまうと、思い描いてしまうと、認めてしまうといけない気がした。
「私はお仕えするだけのメイドなんだから」
 すぐ目の前にまで迫ってきているもう一人の自分を押さえ込もうとするが、そうしようとすればする程、大きくなっていく。
「何を期待してるの。期待したって何も返ってくるわけじゃないんだから」
 不意に胸元に感じるネックレスが気になり、取り出した。
「先生との思い出。私の大切な思い出の証。これが、これが私を私じゃなくさせていく。こんなもの、こんなものさえ無ければ……」
 引きちぎろうと力を込める。しかし半分に割れたハートを握っているうちに、渚の手から力が抜けていった。
「何でできないの……。持っていたら思い出だけじゃ済まなくなるのに」
 渚の中で声にならない気持ちがとめどなく溢れる。
 思い出を繋ぐハートが涙に濡れた。