八月十七日 金曜日

「んー、もう朝かぁ」
 大きなあくびをしながら時計を見るともう七時だった。
「先生と生活するようになってから、少し遅く起きるようになっちゃったな」
 会社にいた頃はもう二時間早く起きていたものだ。こんな時間なんかに起きたら政代や遥に怒られてしまう。
「今日のお天気は」
 カーテンを開けると、どっと陽が渚に降り注いだ。どうやら今日も暑くなりそうだ。
「さて、顔でも洗おう」
 寝室を出て洗面所へ向かおうとした途端、突然書斎の襖が開いた。驚いて振り向くと、そこには半病人のような冬馬がいた。
「せ、先生?」
「やあ、おはよう」
 壁に凭れかかっている先生は今にも倒れてしまいそうな程、頼りない。
「お、おはようございます。先生、今までお仕事していらしたんですか?」
「ああ。だから腹減ってね。あの、悪いけどカレー温めてくれない?」
「はい。ただいま」
「できたら書斎に持ってきて」
「わかりました」
 冬馬が書斎へ入るのも見送らず、渚は慌てて台所に立ち、コンロに火を点けた。
「先生、大丈夫なのかなぁ……」
 十分程してカレーライスが温まると、渚は冬馬に届けた。
「ありがとう」
「いえ。それより先生、ひどくお疲れのようですから、少しお休みになった方がよろしいですよ」
「そんじゃ、一緒に寝るか」
 むぅ、折角心配してるのにまたエッチなこと言うんだから。
「先生、まだまだお元気そうですね」
「ま、別腹と一緒だ。疲れていてもそっちの体力は」
 ぐらりと冬馬は傾き、慌てて手をついた。
「……無いみたいだ」
「早くお休みになって下さいね」
「……そうだな。これ食ったらそうするよ」
 力無く笑う先生を見ているのが、辛い。
「それでは」
「ああ」
 書斎を出ると渚は溜め息をついた。
「……大丈夫じゃないみたい」
 気を取り直して身支度にとりかかった。
 夕食に引き続き、一人で食べるカレーライスは何とも味気無いものであった。渚は皿に半分程残しながら、大きな溜め息をつく。
「そんなに大変なことになってるのかな?」
 仕事でも何でも、実際に見たり体験した方がその大変さを理解できる。渚もまだここに来て日が浅いとは言え、冬馬の姿を見ていたから、それなりに大変さを理解していた筈であった。
 だけど、正直ああまで大変なものだとは、思ってもいなかった。半病人のようになるまで忙しい仕事だなんて……。
「そんなに忙しいんだったらわざわざ……」
 私と外出しなくてもよかったのに。そう言おうと思っても、胸のネックレスを感じると、言葉にできなくなった。
 あの日の情景が思い浮かぶ。そうしてその思い出が楽しい程、今がとても虚しく思える。渚はもう一つ溜め息をついた。
「何でこんなこと考えちゃうんだろ? 私、弱くなったのかな……?」
 最近、すべてのものが近く感じる。この町の空気、人との距離、そして私。それがどう言うことなのかよくわからないけど、一つだけ言えるのは、そのせいで胸が焦がれるような気持ちになっている。
「……考え過ぎるとダメになるよね。よーし、とりあえずはお仕事をがんばろう」
 無限の回廊に足を踏み入れかけていた自分を無理矢理呼び戻すと、渚は残りのカレーライスを食べ始めた。
 食事を終えると忙しさで我を忘れるように食器を洗い、洗濯機を回し、掃除機をかけ、その合間に料理の勉強をした。
 だけど疲れは集中力と動きを奪う。ふとした瞬間に、心の片隅で冬馬のことを考えてしまう自分が確かにいた。
「何とかしてあげたいけど、私じゃ何もしてあげられない……」
 こんな時、瑞穂さんだったら同じ小説家として何か言ってあげられるんだろうな。はぁ、私も先生や瑞穂さんのような文才があれば、先生を助けてあげられるのに……。
 無力な自分が、ひどくみじめに思えた。
 一通り仕事を終えた後も、渚は何かと動き回っていた。食器の整理、靴磨き、換気扇の油拭きなど、細々した仕事をこなす。そうでもしていないと、得体の知れない感情に押し潰されてしまいそうな気がした。
「うぅ〜、疲れた〜」
 いい加減体力も底をついた。渚はソファに体をあずけると、大きく息を吐いた。
 見渡してみるとリビング、いや、家全体が綺麗になっていた。しっかりと磨かれた窓から差し込む陽が、いつもより明るい。
「私は私ができることを精一杯やらなきゃ」
 誰ともなし、自分に言い聞かせた。
 一時頃、書斎からまだ眠そうな冬馬が出てきた。幾らか眠ったため顔色は朝見た時よりよいが、やはり本調子とは程遠いようだ。
「おはようございます、先生」
「おはよう」
 どっかりと冬馬がソファに腰を下ろす。
「麦茶、くれないか?」
「はい」
 急いで渚は麦茶を用意する。
「どうぞ」
「ありがとう」
「先生、まだお疲れみたいですね」
「うん。あれからまた少しやってたから」
「先生、すぐ寝ないとダメですって言ったじゃないですか」
「怒るなよ」
「怒っていませんよ。先生が心配なんですよ」
「わかったわかった」
 もー、先生ったら全然わかってない。
「それで先生、ゴハンはどうします?」
「お茶漬けに味噌汁だけでいい」
「だけ、ですか?」
「ああ。できたら書斎に持ってきて」
 それだけ言うと冬馬はまた書斎に入った。
「無理して体壊したら何もならないのに……」
 不意にまた、自分の考えに疑問が生じた。
 何で私、こんなに心配してるんだろう。
 メイドとしては当然のことなのだが、正直ここまで我が事のようになるのは行き過ぎではないかとも思う。親身になって世話をするとは言え、所詮は仕事上の付き合い。これだとまるで……。
「……あ、ゴハンよそわなきゃ」
 その先を考えることをやめ、渚は食事の支度を続けた。
「失礼します」
 食事を持って書斎に入ると、また冬馬は仕事に精を出していた。
「先生、ゴハンです」
「ああ、そこに置いてくれ」
 指定された場所にお盆ごと置く。
「あの、麦茶……どうですか?」
「いや、今はいい」
「……」
 先生お疲れのようだから、何とかリラックスさせないと。あまり根詰め過ぎるといつか倒れちゃう。
「あの、何か果物でもお持ちしましょうか?お茶漬けだけだと栄養が偏りますよ」
「いらない」
 渚に目もくれず冬馬はペンを走らせている。
「それでは何か御用はありますか?」
「……佐倉さん」
「はい」
 ようやく先生、こっち向いてくれた。
「悪いけど、少し黙っててもらえるかな」
「あ……」
 邪魔しちゃった。先生とっても忙しいのに私、何やってるんだろ。
 重苦しい雰囲気が書斎を支配する。いつもならこうして二人無言でいても平気なのだが、今日は何故か居心地が悪い。
 立ち上る湯気が消えた頃、渚はすっくと立ち上がった。
「それでは先生、失礼いたしました。あの、お茶漬け冷めないうちに食べて下さいね」
 それでも冬馬は黙ったままだった。
 書斎を出ると溜め息が漏れた。
「……ゴハン、食べよ」
 ふっと渚の目の前がかすんだ。
 食事は冬馬と同じお茶漬けに味噌汁にした。多少作るのを手抜きしたかったと言うのもあるが、それ以上に何となく体がそれを欲していた。
「いただきます」
 朝食と同じように、何だか味気無い。
「何か変だよ。一緒にいるのに別々にゴハン食べるなんて」
 すぐそこに先生がいるのに。
「大変なのわかるけど、ゴハンくらい一緒に食べようよ……」
 書斎を一瞥すると渚の心は悲しみで湿った。
 食事を終えると渚は洗い物を済まし、今日の夕食の材料を買うために外へ出た。行く前に冬馬に何か必要なものはないかと訊ねようとしたが、どうせまた冷たくあしらわれるだろうからと、声をかけなかった。
 穏やかな風が少し埃っぽい緑の匂いを運ぶ。胸いっぱいにそれを吸い込むけど、私の心は満たされない。
「今日も暑いなぁ。お天気も雲一つ無いくらいにいいし」
 自分の言葉だけが寒々しい。心の隅からはまた言い知れぬ疼きが湧き上がる。
「……もー、一体何なの?」
 何でこんなに先生が気になるの? 何で先生のこと考えたら、こんなに切なくなるの?
 青い空にそっと問いかけてみたけど、何も返ってはこなかった。
 商店街で買い物をしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「やあ、渚さん」
「あ、新堂さん、どうもこんにちは」
 軽く会釈を交わす。
「ところで渚さん、何だか疲れているみたいだねぇ」
「あ、いえ、大したことでは無いんですけど」
「けど?」
「少し自分がわからなくなって……」
 不思議な気分だった。誰にも打ち明けようなどとは考えていなかったこの心も、新堂さんに会った途端、自然と口をついていた。
「私でよければ、相談に乗るよ」
 優しいその瞳が救ってくれるような気がして、私は素直に頷いていた。
「では、公園にでも行こうか」
「はい。あ、その前にお買い物を済ませてしまいますね」
「どうぞ」
 一通り買い物を済ませると渚と新堂は近くの児童公園に足を運び、ベンチに並んで腰を下ろした。
「いい天気だねぇ」
「そうですね」
 こうして日向ぼっこしていると、ほんの少しだけ心も晴れやかになった。
「さて、自分がわからないとのことだけど、一体どうしたんだい?」
「……実は最近、先生が忙しくて、すぐ近くにいるのに疎遠な感じがするんです」
「ふむ」
「そのせいで一人で考えることが多くなって、気付いたら先生のことが心配で心配で、どうしようもない自分がいるんです」
「なるほど」
「メイドとして先生を大事に想うのは当たり前だと思うんですけど、最近は大事に想い過ぎてしまい、苦しいんです。何故そこまで苦しく思うのか、よくわからないんです」
 うつむきながら私は全てを告白した。途端、新堂さんが何かを含んだように笑い出した。
「新堂さん?」
「いや、失敬。渚さんがあまりにも可愛く思えたものでね」
「どう言うことです?」
「渚さんも、一皮剥けばメイドではなくて、一人前の女の子なんだなぁ、と」
「女の子?」
 私には新堂さんの言ってることがよくわからなかった。だって私はメイドだし、女の子なんだから。だからそんな当然のことを言われても、どうしようもなかった。
「そう。渚さんはしっかりともう、自分が見えている筈。だけどそれを心のどこかで拒否してるんだよねぇ」
「拒否、ですか?」
 そんなことは無い。私は私のまま、こうして生きている。だけど最近になってその自分がわからないからこうして相談しているのに。
「本当に今日は、いい天気だ」
 新堂は太陽に向かって実に伸びやかな笑顔を見せた。
「ありのまま生きていくことは、自分を飾るよりもずっと難しい。みんなどこかで自分に嘘をついて、生きている」
 私が、私に嘘をついている?
「やっぱり人間、素直なのが一番だねぇ」
「素直……」
「飾ることは悪いことではない。そうでもしないと、誰しも世間に潰されてしまう。けど、それでもやはりどこかでありのままの自分を見せる必要があると思うんだよねぇ」
「私は、私に嘘をついているんでしょうか?」
「少なくとも、今はそう思うなぁ」
「……」
「誰もが本当の自分と言うものを知っているわけじゃない。みんなどこかで本当の自分と言うものを求め、探している」
「本当の、自分?」
「そう。だけど本当の自分と言うものは得てして辛いもの。近くにあるけれど、目を背けてしまうんだよねぇ」
 新堂は優しく渚を見詰める。
「それでも渚さんなら、本当の自分と向き合える。私はそう思ってるよ」
 とりあえず、私は頷いておいた。
「さて、そろそろ私は行こうかな」
「あの、どうもありがとうございました」
「いやいや、何もできなくて」
 すっくと新堂が立ち上がる。
「それでは今度会う時は、渚さんが晴れやかな笑顔を見せてくれることを期待してるよ」
 それだけを残し、新堂は去っていった。が、渚は動けずにいた。
「本当の私……」
 じゃあ今の私は何なの? 悩み苦しむ私は私じゃないの?
 自分に正直になるって、一体何だろう?
 物憂げな吐息が、風に流された。
「ただいまです」
 帰宅すると渚は食材を冷蔵庫に詰め、早々に寝室へと入った。仕事は一通りこなしてしまっていたし、何より疲労が溜まっていた。
「ちょっとだけ、お休みしようかな」
 起きているとまた冬馬のことを考え、自分がわからなくなってしまう。新堂に言われたことも、よくわからないので、更に苛立ちを増している。そんな自分から少しでも逃げたくて、渚は布団の中にもぐり込んだ。
 すぐに渚は眠りに落ちていった。
 寝室の襖が開かれた気配がしたけど、私は目を開けられずにまどろんでいた。
「……寝てるのか」
 先生?
 慌てて渚が起き上がる。
「どうしました、先生?」
「悪い。起こしちまったか」
「いえ、いいです。それで先生、何か御用ですか?」
「ああ。五時頃ちょっと出るから、留守番を頼むよ。帰りは何時になるかわからないから、メシ食ったら寝ていいよ」
「はい。わかりました」
「あ、それと佐倉さん」
「はい」
「寝グセ、ついてるよ」
「えっ」
 慌てて頭に手をやると確かについていた。先生はそんな私を面白そうに笑いながら、寝室の襖を閉めた。
 格好悪いなぁ、私。
 いそいそと寝グセをなでつけながら、私は恥ずかしさに耐えられず溜め息をついた。
「じゃ、留守番お願いな」
「はい。いってらっしゃいませ」
 五時丁度、先生はここを出た。私はそれから机の上を乱さないよう書斎の掃除を始める。
「わっ、……ここ汚いなぁ」
 全体的には綺麗に整頓されているものの、やはり細かいところでは汚れが目立つ。渚は念入りに掃除機をかけ、雑巾で拭く。
 一頻り掃除を終えた渚は風呂の用意を整え、沸くのを待つ間にソファに座り、冬馬の小説を読み始めた。
 きりのよいところまで読むと栞を挟み、風呂に入る。一日の疲れが熱い浴槽の中に溶け出していくような心地よさを感じた。
「……先生、か」
 初めはエッチで気難しいけど、私なんかに気を遣ってくれるだけの御主人様だった。でも二階堂さんや瑞穂さんから話を聞くうちに、本当はもっと大きな人だとわかった。
 そんな先生にもようやく最近慣れてきたと思っていたのに、何だかよそよそしくされているような気がする。もっと一緒にいたいのに、先生は忙しいからそれができない……。
「って、何考えてるんだろ。これじゃ私、先生のお仕事邪魔してるみたいじゃない」
 わがままな自分がとても醜く思えた。
 風呂から上がると、夕食の準備をした。冬馬がいないので、焼き魚を中心とした簡単な和食。時間はそれほどかからなかった。
「……いただきます」
 一人で食べる食事はやはり味気無い。孤独を強く意識させられる。
「何か、あの頃のゴハンみたいだよ」
 不意に蘇る孤児院時代の自分。よく覚えていないけど、あの頃も寂しさに苛まれながらゴハンを食べていた気がする。
「うっ……」
 思わず込み上がりそうになったものを何とか堪える。一度堰を切ってしまうと、二度と止められないような気がした。
「先生、今頃何してるんだろう?」
 こんなこと気にしたってどうしようもない。頭ではわかっている。いる、けど……。
「はぁ……」
 気になる。
 魚の骨が舌に刺さると、痛みを感じるより先に涙が溢れた。
 夕食を終え、洗い物を片付けると渚はリビングでテレビを観ていた。仮眠を取ったためまだ眠くはなかったし、それに冬馬のことが気になって仕方なく、眠れそうになかった。
「何か、つまんないな」
 どのバラエティ番組も面白くない。かと言って他の番組が面白いとも思えない。仕事をする気には到底なれなかったし、ぼんやりと時を重ねられずにもいた。
「……本でも、読もうかな」
 寝室から小説を取ってくると、またソファに腰掛け、読み始める。
「……」
 ふと渚が頁をめくる手を止めた。
 そこに書かれているのはヒロインが今の渚と同じように悩んでいる姿だった。渚はそこに自分の探していた答があるような気がして、じっくりと注視する。
 やがてヒロインが一つの結論に達した時、渚ははっとしたまま何も考えられなくなった。
「……まさか、そんなまさか」
 ヒロインが辿り着いた答、それは主人公に恋をしていると言うことだった。
「恋……私が……?」
 しばらく呆然としていた渚も、やがて心の底から込み上がる想いを笑い飛ばした。
「私ったら何を真剣に考えてるのよ。これは本の中のことで、私のことじゃないのに。それに大体、私が恋だなんて……」
 自嘲気味に笑う渚の瞳に悲しみが宿る。
「好きになる意味も知らない私が、こんな私が恋なんてできるわけ、ないじゃない」
 笑いが途切れ、後には静寂が残った。
「私はメイドなんだから、そんな恋なんてできる身分じゃない。期待するだけ無駄だし、そんなこと考えてたら先生の重荷になってしまう……」
 恋愛感情など自分に不要であり、またもしメイドでなくとも自分には恋愛をする資格など無いと渚は本気で思っていた。
「私は、メイドなんだから……」
 渚は両手を固く握り締めた。
 あらかた本も読み終え、ぼんやりとテレビを観ていた十一時半頃、突然ドアノブの回る音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい、先生」
 先生の声が聞こえた途端、私はとても嬉しくなって思わず駆け出していた。
「佐倉さん、寝ててもいいって言ったよね」
「はい。でも何だか眠れなくて」
 うっ、先生すごくお酒臭い。
「先生、呑んできたんですか?」
「ああ。辛島とちょっとな」
 瑞穂さんと……。
「ところでそんなに匂う?」
「はい、少し……。あの、麦茶はどうです?」
「お願い」
 冬馬がソファに腰を下ろすと、渚は冷たい麦茶を渡した。
「ありがとう」
 一気に冬馬はそれを飲み干す。
「おかわりはどうです?」
「いや、いい。それより佐倉さん」
「はい、何でしょう?」
「……いや、何でもない」
「そうですか」
 何でもないわけないよ。だって先生、今すごく真面目な瞳をしてたもん。
「じゃ、俺はもう寝るよ。どうも呑み過ぎたみたいだ」
「それではおやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 冬馬はふらつきながら書斎に消えた。渚も間をおかずに寝室へ入る。
 パジャマに着替えた渚はすぐに電気を消し、布団に潜り込んだ。しかし冬馬が瑞穂と共に呑んでいたことが妙に気にかかり、なかなか寝付けない。
「……何だろう。胸が痛いよ」
 先程はあんなに晴れやかだったのに、今は切なさで苦しい。例えようのない痛みが胸をつく。
「……別に先生が瑞穂さんと何をしていても、私には関係無いじゃない」
 なのに、何でこんなに先生を想ってしまうのだろう。何でこんなに先生のことを考えて苦しくなるんだろう……。
 眠りに落ちる直前、先生の顔が浮かんだ。

 ……ここは、寮?
 気が付くと私は寮のベッドに腰掛けていた。隣ではお姉ちゃんが暇を持て余している。
「ねぇ、渚」
「うん、何?」
「渚はもしお仕えするとしたら、どんな御主人様がいい?」
「そうだなぁ……、とりあえず優しい人かな」
「それは誰だってそうよ。もっと詳しく、ほら例えば実業家とか芸術家とか、若い人とか年取った人とか」
「うーん……」
「男の人とか女の人とか、色々あるでしょ?」
「よく、わかんないや。でもなるべくなら、男の人の方がいいかな」
「どうして?」
「何となく。だって私、よくわかんないもん。でもどんな御主人様でも、お仕えした後によかったと思いたいな」
「渚らしいわね」
「お姉ちゃんはどんな御主人様がいいの?」
「私はそうね、やっぱり若くて格好いい男の人がいいわね。もしかしたらそのまま玉の輿ってこともありうるじゃない」
「お姉ちゃん、自分に正直過ぎー」
「あはは、人間正直が一番よ」
 二人で笑い合っていると、突然ドアが軽く二度ノックされた。
「はい」
 ドアが開かれると、メイド長が入ってきた。
「遥、あなたにお仕事です」
「えぇ、本当ですか?」
「本当ですとも。後で私の部屋に来て下さい」
「わかりました」
 ドアが閉められ、足音が遠去かると私とお姉ちゃんは顔を見合わせた。
「よかったね、お姉ちゃん」
「うん。これで私もようやくメイドか……」
 嬉しそうなお姉ちゃんを見ていると、私まで嬉しくなってくる。
「さっき言ってた御主人様だといいね」
「でも、そう巧くはいかないわよ」
「あー、でも羨ましいなぁ。私も早く誰かにお仕えしたいよ」
「そうよね。私はここに三年前に来たばかりだけど、渚は十年近くいるもんね。本当なら私よりずっと先輩の筈なのに」
「私はだって、まだまだだから」
「そんなこと無いよ。渚にも近いうち、依頼が入るって」
「だといいんだけど……」
 ふっと視線を落としたけど、私は慌ててお姉ちゃんの方に戻した。
「って、今はそれよりお姉ちゃんのことだよ」
「そう、そうよ。あー、本当に楽しみ。一体どんな人なんだろう」
「いい人だといいね」
「そうね。年や容姿より、まずそこよ」
 お姉ちゃん、本当に嬉しそう。
「今日はお祝いだね」
「お酒呑むわよー」
「私、それは遠慮しておく」
 私達はもう一度、笑い合った。

 羨ましかった。
 そして私もその時が来るのを願っていた。
 ただそれだけを、純粋に……。