八月十六日 木曜日

「んんぅ……」
 ころりと寝返り一つ。
「んぅ、ん……」
 元に戻るため、もう一回。
「……気持ち悪い」
 何かもう、ダメ。だるいし、頭痛いし……。
 おぼろげな視界の中で時計をとらえると、もう八時だった。
「わっ、寝坊だ」
 慌てて立ち上がろうとしたがそれも適わず、力無く布団に沈んだ。
「動けないよ〜」
 またお酒いっぱい呑んじゃったんだ。だからこんなに辛いんだ。
「もう絶対、お酒なんて呑まないんだから」
 ゆっくりと起き上がると、壁に凭れかかりながら渚は寝室を出た。
「はぁー、麦茶が美味しい」
 ソファに座りながら麦茶を飲んでいると。幾らか落ち着いてきた私は、大きな溜め息をついた。
「また私、何かしちゃったんだろうな……」
 認めたくないけど、酒乱なのかなぁ、私。
「うぅ〜、先生と顔合わせるの恥ずかしい」
 頭を抱えていても何もならないとわかっているけど、そうしてしまう。はぁ、もう少し大人にならなくちゃ。
「……とりあえず支度しよう」
 寝室で着替えを済ませ、顔を洗って気分を一新し、台所に立つ。冬馬がいつ起きてくるかわからないが、とりあえず味噌汁は作っておかなければならない。
「昨日私、何したんだろう……?」
 知りたいけど、訊くの怖い。
 コトコトと音を立てる鍋の前で渚はまた頭を抱えた。
 味噌汁を作り終え、洗濯機を回し終えた十一時頃、書斎の襖が開いた。
「おはよう」
「おはようございます、先生」
 渚は強いて笑顔を作る。
「何か調子悪そうだね」
「はい。昨日少し呑み過ぎたみたいで」
「少し?」
「あ、いえ、……いっぱい呑みました」
「よろしい」
 冬馬が納得したように頷く。
「それにしても、昨日はすごかったな」
「すごかったとは?」
「佐倉さんの酔いっぷりだよ」
「あぅっ、そんなにでした?」
「覚えてないの?」
「はい。あの、もしよろしければ、私が何を失礼なことをしたのか教えてくれませんか」
 怖いよぉ〜。
「酒の失礼は失礼のうちに入らないから俺は気にしないけど、それでも知りたい?」
「はい。お願いします」
「でもきっと佐倉さん、驚くよ」
「大丈夫ですから」
 もったいぶらないでよ、先生。
「じゃ、話すけど」
「はい」
「佐倉さん、恋の話をしたこと覚えてる?」
「恋、ですか」
 したような、してないような……。
「……何となく、したような気がしますけど、全然覚えてません」
「そう。えっとね、俺が佐倉さんに恋をしたことがあるかって訊いたら佐倉さん、急に怒り出したんだよ。またそうやってバカにするとか言ってね」
「はい?」
 何でそんなことで私が怒るの?
「恋をしたことの無い私を先生がからかうとか言ってね。それから自分は辛島より胸が小さいとか何とか……」
「……本当ですか?」
「本当だ。それから私だって女だから、その証拠にこれから先生に恋しますって」
「ええっ?」
 そんなこと言ったの?
「それから更にキスしたら先生も認めてくれるんですねって、俺に迫ってきたんだ」
「……」
 は、恥ずかしいよ〜。何でそんなことしたんだろ?
「さすがにマズイと思ったから佐倉さんを寝室に返したんだけど、その間も暴れて暴れて。寝かしつけるのに一苦労だったよ」
「先生、すみません。本当にすみません」
 渚は何度も頭を下げる。
「酔っていたとは言え、そんな失礼なこと言ってしまって、申し訳ありません」
「失礼じゃないよ。むしろ嬉しかったよ」
「へっ?」
「佐倉さんみたいに若くてカワイイ女の子にそう言われて不快に思う男なんていないよ」
「あ、あの、えっと……」
 カワイイ? 私が?
「男冥利に尽きるよ」
「そ、そんなこと言っちゃダメです」
「何で?」
「だから、それは、あの、えっと……」
 うぅ〜、恥ずかしいよ〜。
「はは、ま、いいや」
 先生のその無邪気な笑いが、何故かとても私の心に染みた。
「それより佐倉さん、メシにしてくれ」
「は、はい」
 私は赤い顔のまま台所に立った。
 食事ができると渚はリビングに運び、冬馬と共に蓋を取った。
「酒にやられた胃に優しい和食。ありがたい」
「そんな。いつも通り変わり映えの無いゴハンで、すいません」
「何言ってんだよ。これで充分。もし朝から満漢全席なんて食わされたら吐いちまう」
「先生、お食事中ですよ」
「ああ、悪い。でもそう言うことだ」
「ありがとうございます」
「でも、酒。やめられないよなぁ」
「私はもう呑みませんよ」
 もうあんな辛い思いはこりごりだよ。
「つれないこと言うなよ。ま、でもそう言いつつもきっとまた呑むよ」
「そんなこと無いですから」
「俺も何度もそう思ったよ。二日酔いになる度に、もう絶対呑まねぇってな。でもすぐに忘れて、また呑んじゃうんだよ」
「私は大丈夫です」
「みんなそう言う。それに佐倉さんだって、俺と何度も呑んでるじゃないか」
「うっ……」
 そう言われれば、そうだ。
「逃れられないのさ」
「はぅ〜」
 渚は困ったように肩を落とした。
 食事を終え、書斎に入ろうとした冬馬を渚は呼び止めた。
「後でお買い物に行きますけど、何か必要なものはありますか?」
「とりあえず酒を」
「呑み過ぎですよ」
「佐倉さんも呑むからだよ」
「うっ……」
「ま、お願いね」
「はい。後は何かありますか?」
「そうだな……」
 腕組みしながら冬馬は天を仰ぐ。
「スクール水着」
「はい?」
「欲しいなぁ」
「ダメですよ」
「佐倉さん、似合うと思うのに」
「私が着るんですか?」
「他に誰が着るの?」
「……」
「着てくれないかな?」
「イヤですよ。もー、先生ったらダメです」
「……じゃ、他には何も無い」
「そんなすねた瞳をしないで下さいよ〜」
「だって佐倉さんが……」
 先生、粘るなぁ。でも着れないよ。
「はい、ではそれだけですね」
「ああ、それだけ」
「では先生、お仕事がんばって下さいね」
「佐倉さんもね」
 冬馬が書斎に入ると渚は大きく息を吐いた。
 洗い物を終え、洗濯物を干し終えると渚はアパートを出た。
 爽やかな八月の陽が少し酔いの残る体には辛かったけれど、風が運ぶ縁の匂いが少しだけ足取りを軽やかにさせてくれた。
「いい天気」
 ふっと天を仰ぐと太陽が眩しくて目を開けていられなくなった。慌てて下を見る。
「気持ちいいなぁ。先生も書斎に閉じ込もってなんかいないで、こうしてお外に出ればいいのに」
 先生、か……。
 最近私の中で何かが変わってきている。考え方もそうだけど、特に先生に対しての想いみたいなものが、何か。
 少し前はエッチなだけの御主人様だった。でも今は、何か違う。信念を持っている優しい先生。大切な人が、より大切になった感じ。
「信頼、なのかなぁ」
 だけどそれだけでもないような気がした。
「……んー、わかんないよ」
 渚の中で自分と言うものが少し遠くなった。
 商店街に着くと、八百屋から回り始めた。今日の夕食はカレーライスにするつもりだから、ジャガイモやらニンジンやらを買い込む。
「渚ちゃん、タマネギは?」
「あ、忘れていました。二つお願いします」
「カレーだと、この豚バラがいいよ」
「では、それをお願いします」
 各店主達にもようやくなじみが深くなってきたので、最近ではこうして軽く会話を交わすようになった。
 その度に渚はこの町をより好きになり、またここが故郷と言えるものかもしれないと言う思いさえ抱くようになっていた。
 買い物の締めくくりとして、酒屋に入る。
「おう、メイドさん。よく来たね」
「どうも」
 渚は軽く会釈する。
「今日は先生と一緒じゃないんだね」
「はい。先生はお仕事が忙しいので」
「そうかそうか、そりゃ結構。で、いつものでいいのかな」
「はい」
 二千円を払い、一升瓶の入ったビニール袋を受け取る。
「でも先生、ちゃんと書いてるんだな」
「それはもう。毎日朝方まで書いていますよ」
「はぁー、朝までね。ま、体壊さないように伝えといてくれ」
「はい。それでは」
 酒屋を出て、商店街を後にしようとしたら不意に肩を叩かれた。
「やあ」
「あ、新堂さん。こんにちは」
「こんにちは。ところで渚さん、お買い物は終わったようだね」
「はい。新堂さんはお散歩ですか?」
「そうだね。そんなところかな。いやぁ、しかし今日の渚さんは気分がよさそうだ。この前の悩みは晴れたようだね」
「おかげ様で。完全にとはいかないまでも、大分気持ちに整理がつきました」
「それは何より」
 新堂はまるで我が事のように笑う。
「やはりメイドは明るい方がいい。まあ、メイドに限ったことではないけれど、自然な笑いは回りをなごませるからねぇ」
「えへへ」
 こうして笑えるのも、色んな人が私を支えてくれるからだよね。感謝しなくちゃ。
「それでは私はそろそろ。忙しい中引き留めて悪かったね」
「いえ、こちらこそ」
 新堂は背を向け軽く手を挙げると、どこかへと去って行った。
「新堂さん、私のこと心配してくれてたんだ」
 何だか嬉しくなってきた渚の頬は自然と綻んでいた。
 八月の陽光を浴びて光る景色を楽しみながら歩いていると、不意に美帆の顔が浮かんだ。
「そうだ、今日美帆ちゃんと会う約束してたんだ」
 冬馬に悪いと思いつつ、渚は小学校へと足を向けた。
 うさぎ小屋の前にはもう美帆がいた。昨日何時に会うと決めていなかったため、もしかしたらずっと待っていたのかもしれない。
「美帆ちゃん」
 渚の呼びかけに美帆が振り向く。今までに見られなかった安堵の笑みがそこにはあった。
「渚お姉ちゃん、来てくれたんだ」
「もちろん。だって約束したでしょ。ねぇ、もしかしてずっと待ってた?」
「一時間くらいかな。でもずっとうさぎと遊んでたし、それに渚お姉ちゃんが来るのを、楽しみに待ってたから」
「ごめんね、待たせちゃって。さ、それじゃうさぎさんを一緒に見よう」
「うん」
 二人は金網の前にしゃがむ。
「カワイイよねー」
「うん」
「このもこもこ具合とか」
「うん。ふかふかして温かい」
「ほわほわした尻尾も素敵だよね」
「うん、カワイイ」
 渚はうさぎに熱い眼差しを送り続けながら、ふっと笑みをこぼした。
「ねぇ、美帆ちゃん」
「なぁに?」
「学校って、どんなとこなの?」
「……イヤなとこだよ。私、お友達いないからずっと一人だし、勉強キライだし、いいとこなんて何も無い」
「それでも私、羨ましいな」
「どうして?」
「だって、一生に一度しか小学生とかって味わえないもん」
「……」
 美帆は黙ったまま視線を落とす。
「私はもう、小学生や中学生にはなれない。だけど美帆ちゃんはできる。たとえ今がとても辛くても、まだ可能性は残ってる」
「……でも、私はダメだもん」
「諦めたら、いつまでもそのままだよ」
 はっと美帆が顔を上げ、渚を見詰める。
「どんなことも諦めたらそこで終わり。そう思った時、できることもダメになるんだよ」
「私は……」
 美帆が何か思案していると、不意に背後が騒がしくなった。
「あ、うさぎのお姉ちゃんだ」
「本当だ。おーい、今日も来たぞー」
 ぞろぞろと数人の小学生が集まる。と、その中の一人が美帆を指差した。
「あー、親無し女だ」
「本当だ。親無しだー」
 びくりと美帆の表情が強張る。
「親無しー、親無しー」
「一人ぼっちー」
「帰れー、親無しー」
「そうだそうだ。こんなとこにいるなよー」
「帰れー、親無しが伝染るー」
 続々と浴びせられる罵詈雑言に堪えられなくなった美帆が、その瞳に涙を浮かべる。
「うさぎのお姉ちゃん、離れなよ」
「そうそう、こんな奴と一緒にいないでさ」
「向こうに行けよー、親無しー」
「うっ……ぐすっ……」
「わーい、泣いた泣いた」
「親無しが泣いたー」
「気持ち悪いからあっち行け」
 すっと渚が立ち上がり、子供達の方へ振り返る。
「いい加減にしなさい!」
 振り絞るような怒声が子供達を途端に静かにさせた。
「何がそんなに悪いの? 親がいないのが、何で悪いの?」
 渚の肩が怒りで震えている。
「だって……」
「いないってことはとっても辛くて、寂しいんだよ。なのに何でみんなはそんなこと言うのよ? 何で美帆ちゃんの辛さを少しでもわかってあげられないのよ?」
 子供達は何も答えようとはせず、ただ黙って立ち尽くしている。
「私だって、親がいないんだよ。お父さんの大きさも、お母さんの温かさも知らないんだよ。ずっとそうして生きてきたんだよ……」
「えっ?」
「みんながお父さんお母さんと手を繋いだり、一緒に笑い合ってるの見るの、とっても辛くて寂しいんだよ」
「……」
「それでも必死にがんばってるのに、何でそんなひどいこと言うの?」
「……」
「親がいないのは確かに辛いことだけど、それと同じくらい大切な人を作ることはできる。私だって、色々な人に支えられて生きている。でも、それは難しいことなの」
「……渚お姉ちゃん、もういいよ」
「大切な人を見つけるのは難しいけど、自分が大切な人になってあげることはできるの。少なくとも、私はそう思ってる。みんなが美帆ちゃんの大切な人になってあげることもできる。なのに何でそんなひどいこと……」
 渚の瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。
「もういいから、渚お姉ちゃん……」
「一人ってとっても辛いのみんなもわかっているのに、何で一人にさせようとするの?」
「……」
 子供達もその瞳から涙が滲んでいる。
「美帆ちゃんにまず、謝りなさい。全てはそこからよ……」
「……ゴメン」
「悪口言って、ゴメンよ」
「僕らが、悪かったよ」
 子供達は泣きながら次々と頭を下げる。
「美帆ちゃん……」
 渚がそっと美帆の背中を押す。
「もう、いいから。だから、その……」
 数秒ためらった後、美帆は振り返るように明るく笑った。
「友達になって」
 さっと差し出された手に、子供達はわっと群る。その様子を渚は嬉しくも羨ましくも見ていた。
「渚お姉ちゃん、ありがとう」
「ううん、私は何もしてないよ。全部美帆ちゃんと、みんながしたことだよ」
 渚は目元を払う。
「さ、私はそろそろ帰らなくちゃ」
「うさぎのお姉ちゃん、行っちゃうの?」
「うん。私は私の大切な人のとこに行かなくちゃならないの。みんなも、お互いを大切な人として、仲良くしてね」
「うん」
 美帆達に見送られながら、渚は小学校を振り返ることなく去った。
 もう大丈夫。これでもう、美帆ちゃんは一人じゃない。
 ……だけど、何で寂しく思うんだろ?
 蝉の声が何故か寂しく思うんだよ。
 アパートまでもう少しと言うところで、亜紀に引っ張られている瑞穂が目に入ったので、渚は慌てて近付いた。
「どうしたんですか?」
「あら渚ちゃん。今ね、この放蕩娘に仕事をさせるとこなのよ」
「助けてー、渚ちゃん」
「えっ、えっと……」
「いいわよ、この小ザルの戯言なんて聞かなくても」
「ちょっと、小ザルはないでしょ、小ザルは」
 暴れる瑞穂の腕を亜紀が締め上げる。
「いたたたた。わ、わかったわよ」
「大人しくしないからよ」
「だからわかったってばー」
 ……瑞穂さん、ちゃんとお仕事しようよ。
「じゃあね、渚ちゃん」
「また遊びに行く……いたたたた」
「仕事終わらせてからにしなさい」
「じゃあねー」
 瑞穂と亜紀はそんなやりとりを続けながら駅の方へ消えた。
「……亜紀さんも大変なんだなぁ」
 しばらく駅の方を眺めてから、また渚は冬馬の待つアパートへ歩き出した。
「ただいまです」
「あ。おかえり」
 リビングのソファで麦茶を飲んでいる冬馬が、渚の方へ顔を向けた。
「瑞穂さん、来ていたんですか?」
「ああ。よくわかったな」
「さっき会いましたから」
 渚は冷蔵庫に食材を詰める。
「ったく、本当に辛島にも困ったもんだよ」
「亜紀さんも大変そうですね」
「同情するよ」
 でも先生、何だか寂しそうに見えるのは気のせいかな。
「これからお仕事ですか?」
「ああ。ちょっと忙しくなりそうだ」
「がんばり過ぎはお体に悪いですよ」
「わかってるよ」
 渚は食材を詰め終えると、冬馬に一升瓶を渡す。
「それではお仕事、がんばって下さいね」
「佐倉さんもね」
 冬馬は書斎へと消えた。
「さて、お仕事しなくちゃ」
 洗濯物を畳み、風呂場を掃除する。溝にこびり付いている汚れはなかなか落ちないので、何度も擦る。
 腕のだるさが極限に達した頃、ようやく綺麗になった。夕食までまだ少しあるので渚は寝室へと戻り、畳んである布団に凭れ込んだ。
「疲れたー。腕痛いよー」
 それに長い時間かがんでいたから腰も痛い。
「眠いけど、晩ゴハン作らなきゃ。あ、その前にお風呂沸かそう」
 深呼吸を一つしてから、渚は寝室を出た。
 冬馬も渚も風呂から上がると、渚は夕食の支度にかかった。今日はカレーライス。渚はそれに一区切りつけると、書斎の襖を開けた。
「先生、もう少しでできますから」
「あ、佐倉さん。悪いけどメシができたら、ここに持ってきてくれないかな」
「向こうで食べないんですか?」
「ああ。ちょっと忙しくてね」
 そう言う先生はとても疲れているみたいで、私は少しでもお休みして欲しかったけれど、それを口にはできなかった。
「わかりました。それではできたら持ってきますね」
「頼む」
 書斎を出ると渚はすぐにカレーライスとサラダと麦茶を待って、冬馬に届けた。
「ありがとう」
「あの、決して無理はしないで下さいね」
「ああ」
 またすぐに冬馬は原稿に向かう。
「冷めないうちに、召し上がって下さいね」
「うん。一区切りついたら食べるから」
 渚は書斎を出ると、溜め息をついた。
「先生、忙しいんだ……」
 重い足取りで台所に立ち、自分のカレーライスをよそう。
「そう言えば一緒にゴハンも食べられないほど先生が忙しいのって、初めてだ」
 ここへ来て初めて別々に食事を採る。たったそれだけのことに、渚は寂しさを感じ始めていた。
「いただきます」
 一口食べてみるが、何か物足り無い。
「……んー、おかしいな。作り方は変えていないし、失敗も無いと思うんだけど……」
 スプーンを動かす手が重いのは、きっとお風呂場掃除をしたからだ。
「あー、何かもやもやするー」
 言い知れぬ感情は渦を巻き、不快感が募る。
「カレー、美味しい筈なのに……」
 渚はスプーンをくわえたまま、ぼんやりと天井を見上げた。
 食事を終えると渚は洗い物にとりかかった。何か仕事をしていればその気も紛れるだろうと思っていた。けど、
「何でこんなに先生が気になるんだろう?」
 考えても仕方ない。先生のとこに行こう。
 渚は洗い物を終えると、書斎に入った。
「先生、まだ食べていないんですか?」
 カレーライスは運ばれた時のままだった。
「んー。もう少ししたら食うよ」
 さっきもそう言ってたよ。
「あの、温め直してきますか?」
「いや、いい」
 相変わらず冬馬はペンを走らせたまま、渚の方を向こうとはしない。
「それではコーヒーをお持ちしましょうか?」
「……佐倉さん」
「はい」
「今日はもういいよ。俺、集中したいから、今日は書斎以外で自由にしてて」
「あ……」
 そう、だよね。先生が忙しいのに邪魔しちゃいけないよね。
「わかりました。それでは先生、お仕事無理せずがんばって下さいね」
「ああ」
 書斎を出た渚は、大人しく寝室に入った。今日はもうこれと言って仕事はなかったので、冬馬から借りた読みかけの小説を開く。
「……」
 が、いつもは書斎で冬馬の背を確認しながら読んでいるためか、一人でこうして読んでいても何となし居心地が悪く感じる。
 きりのよいとこまで読むと、渚は溜め息をつきながら天井を見上げた。視界が少しだけかすむのは、きっと疲れ目のせいだろう。
「何か、物足り無いなぁ」
 自分の一人言に、奇妙な違和感を感じた。
 あれ? 物足り無いって、何を物足り無いと思っているんだろう? 私は一体、何を求めているんだろう?
 自分の中で膨らむ漠然とした想い。しかしその正体を掴もうとしても、見えそうなところで消えてしまう。
「……何だろう?」
 幾ら考えてみてもわからないので、気を取り直して再び小説に目を落とす。
 が、得体の知れない感情が蠢き続けているのみならず、広がりつつあるので、読むのに集中できない。
「もー、一体何なの?」
 次第に自分がわからなくなり、渚は栞を挟んでから本を閉じると、ころりと布団の上に横になった。
「んー……」
 一人でいるのには慣れている。今まで佐倉渚でいた時は、いつもそうだった。例え孤独の中に身を置いていても、自分の中に逃げ込んでしまえば、それで何事も無く過ごしてこられた。
 だからこそ、この奇妙な感情にとらわれている自分が自分ではないように思え、戸惑いを覚える。
「……もしかして、寂しいと思ってるのかな。いつも先生と一緒にゴハン食べて、先生がお仕事している間も側にいるのに慣れちゃったのかな?」
 確かに心は空寒い。だけど、それだけでは説明のつかない何かもあった。
「そりゃ、私だって先生が忙しいことくらいわかるよ。今日だって私を下げたのも、私がいると先生は優しいから何か退屈させないようにしてしまい、それで集中できなくなると困るから、そうしたんだろうし。それは当然のことで、先生に悪意が無いってのもわかるよ」
 自分を奮い立たせようとするが、全て虚しく感じる。
「でも、何で……」
 不意に胸元でネックレスが揺れた。割れたハート。それを見ていると、更に自分の中で不可解な痛みにも似た気持ちが膨らんでいき、枕に頭を沈めた。
「……何で、こんなに先生のこと考えちゃうんだろう?」
 がばっと起き上がり、渚は部屋の電気を消すと、布団に入った。

 ……ここは、会社?
 気が付くと、私は会社のホールにいた。何だか全ての物が大きく見える。
「さあ、渚。こっちへいらっしゃい」
「はい」
 私はメイド長に手を引かれ、一階の食堂に連れて行かれた。
「今日はここをお掃除してもらいます。私はここにいますから、何か困ったことがあれば何でも言って下さいね。だけど、すぐに私のとこへ来てはいけませんよ」
「わかりました」
 近くにあった雑巾を手に取り、バケツの中に入れる。水気を取るために力一杯絞るけど、何だか力が入らない。
「渚、雑巾はこうして縦に絞るのですよ」
 教えてもらい、その通りにするとすっかり水気が雑巾から抜けた。
「そう、そうやるのです」
 私はテーブルから拭こうとしたけど、届かないのでメイド長の方を向いた。
「テーブルはいいです。その脚を拭きなさい」
 こくりと頷き、さっそくとりかかる。
 たっぷり五十人は入れる食堂のため、その数はとても多い。十脚も拭く頃には、次第に嫌気がさしてきた。
「まだですよ、渚。それが終わったら遊んでもいいですから、与えられた仕事はきっちりこなすのです」
「……はい」
 面倒臭いけど、こうしないと私はここにはいられない。また一人になるのは、嫌。
 ようやく全てが終わると、メイド長が私の頭を撫でてくれた。
「よくがんばりました」
「えへへ」
「これからも、そうやってがんばるのですよ」
「はい」
 嬉しかった。ここには私を認めてくれる人がいる。私がいてもいい場所がある。
「さあ、お外へ行きましょうか」
 メイド長の手は、とても暖かかった。

 ようやく手にした私の場所。
 みんなが優しくしてくれ、必要としている。
 暖かく、居心地のよい世界。