八月十五日 水曜日

 ……うぇ、気持ち悪い。
 寝室の布団にくるまりながら、渚は開きかけた眼をまた閉じる。
 私、いつここで寝たんだっけ?
 痛む頭で必死に昨日の記憶を手繰り寄せる。
 えっと、昨日は先生と遊園地に行って……。
「楽しかったなぁ、遊園地」
 ころころと思わず転がるとひどく頭が痛み、渚は一人呻いた。
「うぅ〜、この痛み……そうだ、夜に先生とお酒呑んだんだ」
 だがどれくらい呑んだかは覚えていない。
「また先生に迷惑かけたのかなぁ……」
 ころりと反転すると、胸元に何かが触れた。
「あっ……」
 銀色のペアハートネックレス。冬馬のとで一つになるそれは、カーテンの隙間から射し込む朝日に輝いている。
「先生……」
 何故かそれが愛しく思え、渚はそっと手を当てながら目を閉じた。
「―─って、ダメだよ。起きなきゃ」
 時計を見ると七時。急いで起き上がろうとしたが頭がグラグラ揺れたので、ゆっくりとタンスに向かい、着替えを済ませると顔を洗いに寝室を出た。
 顔を洗うと少しだけ爽快になれたが、まだ本調子には程遠い。渚は冷蔵庫から麦茶を取り出し、ゆっくりと噛むようにして飲む。
「ふぅ。さて、ゴハン作らないと」
 と言っても先生まだ起きないだろうから、お味噌汁しか作れない。あ、ゴハンのスイッチ入れないと。
 しばらくしてそれができあがり、渚は軽い朝食を採ってから、洗濯を始めた。
「おはよう」
 十時半頃、書斎の襖が開いた。
「おはようございます、先生」
「佐倉さん、昨日はすごかったね」
「あ、やっぱり私、何かしました?」
「したした。酔って俺に無理矢理呑ませるし、抱き着いてくるし」
「ええっ、本当ですか?」
「ああ。『先生、ありがとうございます。大好きですー』って」
「すみません」
 ……恥ずかしいよ〜。そんなことしたんだ。
「それだけじゃない。暑い暑いって、スカートまくるし」
「ほ、本当ですか?」
「本当。昨日は白かった」
「……それ、嘘ですね」
「チッ、バレたか。でもそう言うってことは、昨日は白じゃなかったってことか。うーん、何色だったんだろうなー?」
 うぅ、先生そんな眼で見ないでよ。
「ピンクかな? 青かな? それとも薄緑なのかな?」
「想像しちゃダメです」
「……まさか何もはいてなかったとか?」
「そんなわけ無いじゃないですか。もー、朝ですよ。なのにそんなことばかり言ってちゃダメです」
「作家たるもの常に想像力豊かにして、書く訓練をしているんだよ」
 本当かなぁ?
「ま、それより麦茶くれ。メシはそれからだ」
「はい」
 渚はすぐに麦茶を渡すと、食事の準備にとりかかった。
「お、今日の味噌汁は何か美味いな」
「ありがとうございます。でも、いつもと何も変えていませんよ」
「そう。それじゃ、酒にやられているから特に美味く感じるんだな」
 私は何も感じないけどなぁ。
「でも、こうして正しい食生活が送れるのは、佐倉さんのおかげだよ」
「そんな……」
 渚はついと視線を外す。
「いや、本当に。俺、健康には割と気を遣う方なんだけど、実践しないから、つい同じ物ばかり食べたりするんだ。でも、佐倉さんが来てから色んなメシが食えて大助かりだよ」
「私は当然のことをしているだけですから。あ、瑞穂さんに作ってもらったりしたことは無いんですか?」
「俺、アイツのメシ食って腹壊して以来、食べてないな。本当にメシ作るのが下手なんだ」
「そうなんですか」
「ああ。だから俺は辛島を女として見ていないんだよ。女ならメシぐらい作れて当然だと思ってるからさ」
 男の人ってそうなんだ。
「でも瑞穂さんもお仕事忙しいから、仕方ないですよ」
「いつも亜紀さんから逃げ回るのに忙しいと言った方が正しいんじゃない?」
「……」
 食事を終えると冬馬が書斎に入った。渚は洗い物にとりかかる。
「はぁー、やっぱり酔って先生に迷惑かけてたんだ……」
 スポンジに洗剤をなじませ、泡立たせてから茶碗を磨く。
「疲れは抜けないし、頭は痛いし……もう、お酒なんて呑まないんだから」
 洗い物を片付けると、次はアイロンがけ。午前中に干しておいた洗濯物はぽかぽかと暖かく、太陽の匂いがした。
 はぁ〜、いい気持ち。……だけど、夏場のアイロンがけって、暑いからダメ。
 それでも何とかそれを終えると寝室に入り、布団に背凭れながら冬馬の小説を読み始めた。
 昨日見せてもらったのとこれ、全然違う。
 今読んでいる『黒の衝撃』にも男女の愛について書かれているのだが、昨日渚が見せてもらった次回作のプロットとは、やはりどこか違っていた。
「何か、こっちは暗いなぁ。でも、あれもきちんと書かれたら、こうなるのかな」
 ……完成したら、先生に見せてもらおう。
 ある程度読み進めると渚は本を置き、書斎へと向かった。
「先生、これからお買い物に行きますけど、何か必要なものとかありますか?」
「……佐倉さんの」
「エッチなこと言うのは無しですよ」
「……鋭いな」
「それほどでも」
 渚はにっこりと微笑む。
「それで先生、何かあります?」
「行くんなら、俺も散歩がてら行くよ。支度するからちょっと待って」
「はい」
 冬馬も渚も支度を整えると、戸締まりと火元を確認してからアパートを出た。
 風穏やかな昼下がり。昨日降った雨は夜中に勢いを増していたものの今はその痕跡などどこにも見当たらない。
「あれ、それ着けてるんだ」
 渚の胸元で光る割れたハートに気付いた冬馬が、ふと呟いた。
「はい。今、私ができる精一杯のオシャレですし、それに先生との思い出の品ですから。先生のはどうしたんです?」
「俺は無くさないよう、書斎の机の引き出しの中にしまってあるよ」
「そうなんですか」
「佐倉さんも無くさないようにね」
「はい。気を付けます」
 でも、こうして着けていれば、すぐ気付くから大丈夫だよね。
「それにしても暑いな。蝉もうるさいし」
「でも今日は過ごしやすい方だと思いますよ。それに蝉がこうして鳴くから、夏をより深く感じられるんですよ」
「夏をより深く感じる、か。何だか胸に響く台詞だな。後で小説に使わせてもらうかな」
「えへへ、ありがとうございます」
 商店街に着くと魚屋から回る。
「今日は何にするつもりなの?」
「今日はお刺身でもしようかと。先生、何がお好きですか」
「そうだな、甘エビとホタテ以外なら大丈夫かな」
「では、ハマチなんかはどうです?」
「いいねぇ。俺、ハマチ好きなんだ」
 魚屋で買い物を済ませ、八百屋へと向かう途中、前方に見覚えのある少女がいた。
 あ、あの娘だ。
 駆け寄ろうとしたら、冬馬に腕を掴まれた。
「おい、どこに行くんだよ。八百屋はこっちだろ?」
「あ、えっと」
「まさかまたうさぎか? かんべんしてくれよ、ここは商店街なんだから」
「いえ、違います」
 少女はそんなやりとりを交わす渚に気付いたらしく、どこかへ駆けて行ってしまった。
「じゃあ何?」
「……いえ、何でもありません。さ、八百屋さんに行きましょう」
 うぅ〜、もうちょっとだったのに。
 買い物を終え商店街を後にした頃には三時半を少し回っていた。
「あー、こんな日は海にでも行きたいな」
「いいですね。先生、泳げるんですか?」
「いや、泳げない。と言うより泳げなくなったと言う方が正しいかな」
「どうしてです?」
「昔、溺れたことがあるんだ。だから海の中には入りたくないんだよ。でも海自体は好きでね。波音を聞き、潮風を肌に感じながら呑むビールは最高だよ」
「やっぱりそこでもお酒なんですか」
「まあね。佐倉さんは泳げる?」
「いえ。私、水着を持っていませんし、それに海にも行ったことありませんから」
「そうなんだ」
「はい。ですから、泳げるかどうかもわからないんです」
「わからないって、小学校のプール授業とかで泳げるかどうかぐらいわかるだろ?」
 あ、しまった。
「えっと、あの……」
「ま、でもプールと海とじゃ違うからな」
「そうなんですか」
 よかった。何とかボロが出ないで済んだ。
「さて、今日はこっちから帰るか」
「えっ?」
 もう少しで小学校に差し掛かろうとしたところで、冬馬がいつもとは違う路地に入った。
「タバコ買いたいし、それに」
「それに?」
「うさぎと会わせたら、折角のハマチが腐るだろ」
「……そうですね」
 うさぎさんに会いたかったのに……。
 小学校を迂回し、渚と冬馬は帰宅した。
「麦茶ちょうだい」
「はい、どうぞ」
 渚が冬馬に冷たい麦茶を渡すと、冬馬は一息で飲み干した。
「ありがとう。さて、俺はこれから仕事するから。メシは七時頃にしてね」
「わかりました。それではがんばって下さい」
「佐倉さんもね」
 書斎の襖が閉められると、渚は大きく伸びをした。
「さて、お掃除でもしようかな」
 リビング、寝室、台所、玄関に掃除機を一頻り走らせてから、お風呂場、ベランダをもついでに綺麗にする。書斎もしようかと思ったけど、今は先生がいるからやめておく。
「はぁー、疲れた。一休みしよう」
 寝室に入り、料理の本を開く。作れない食事も、見ているだけで楽しい。
「……でも、やっぱり作れるようになって、先生に食べてもらいたいな」
 溜め息をつきながら、うらめしげに本を見、肩を落とした。
「もっとがんばらないと……。幾ら先生が私のことメイドだって言ってくれても、これがメイドの限界だとは思われたくないよ」
 だが、今できることはあまりにも少ない。それに、幾ら家事をがんばったところで、それだけがメイドの役目だとは思えない。
「難しいなぁ……」
 教えられたことをこなすだけじゃダメなんだよね。でも私、何をすればいいの……?
 あてどもない思考の迷宮に落ちて行きそうになり、渚は大きく横に首をを振った。
「……お散歩でもしてこようかな」
 今これと言ったお仕事無いし、先生は小説書くのに忙しいからいいよね。
 寝室を出ると渚はそれでも書斎に向かって頭を下げてから、アパートを出た。
 外に出て歩けば自分の中に迷いが少しでも変わるかと期待していたが、そんなことは無かった。
「どこに行こうかな」
 言葉とは裏腹に、渚の足は小学校へと向いていた。
 うさぎ小屋の前に人はいなかった。渚はそこへ近付き、しゃがみ込む。
「うさぎさん、元気にしてた?」
 渚は近くの雑草を引き抜き、うさぎに差し出す。
「お世話って難しいんだよね。教えられた通りにやっても、何かダメ。ねぇうさぎさん、どうしたら先生にもっと喜ばれるかなぁ」
 うさぎは何も答えず、ただカツカツと渚の差し出した雑草を金網越しに齧っている。
「きっとお姉ちゃんや他のメイドなら、私より先生をきちんとお世話できるんだろうな」
 不意に背後に気配がした。いつもならば、うさぎと戯れているために気付かないであろう気配にも、何故か胸が騒いだ。
 振り返ってみるとそこにはあの少女がいた。少女は渚に気付かれるなり、逃げ出す。
「待って」
 逃げる少女を渚は必死に追い駆けた。もしここでまた逃してしまうと、もうチャンスは無いような気がした。
 少しして渚が少女の腕を掴むと、少女は大人しく立ち止まった。
「ねぇ、何で逃げるの?」
「……」
 うつむいたまま、少女は何も答えない。
「……うさぎさん、好きなんでしょ?」
「……うん」
 パッと渚の顔が弾ける。
「だったら逃げなくてもいいのに。私もね、うさぎさんが好きなんだ」
「……」
「ねぇ、どこが好き?」
「……よく、わからない。けど」
「けど?」
「何となく、私と……同じような気がするの」
 私と、同じだ。
 少女の言いたいことは渚にはよくわかった。同時に奇妙な親近感さえ、芽生え始めていた。
「私もそうだよ。私も、うさぎさんと同じような気がしているし、何か自分にとって大切なものだと思ってるの」
「そうなの?」
「うん。だからうさぎさんが大好きなんだ」
 渚の笑顔に、少女もふっと頬が緩んだ。
「ねぇ、お名前は何て言うの?」
「……城之内美帆」
「私は佐倉渚。よろしくね、美帆ちゃん」
「うん」
 お互いに握手を交わす。
「一つ訊きたいんだけど、いいかな?」
 美帆はこくりと頷いた。
「どうして私から逃げていたの?」
「……羨ましかったの」
「羨ましい? 私が?」
 美帆はまたこくりと頷いた。
「だって渚お姉ちゃん、いつも周りにたくさん人がいるんだもん。私はいつも一人だからそれで……」
「美帆ちゃんは一人じゃないよ」
 渚はにっこりと微笑みかける。
「だって私がいるもん。友達になって、いいかな?」
「……うん」
 美帆もそれに微笑み返す。
「ありがとう。実は私、美帆ちゃんが初めての友達なんだ」
「えっ?」
「私ね、お父さんもお母さんもいなくて、小さい頃からずっと一人だったの。孤児院に入っても、ずっと一人だった」
「そうなの?」
「うん。それで小学校とかにも行かないで、五歳ぐらいから働き始めたから、友達っていないんだ」
 派遣所での人々は仲間であって友達ではない。無論、遥も政代も、渚にしてみればそうであった。
「だから、美帆ちゃんが私の初めての友達になるんだ」
「……」
 美帆は渚の胸に飛び込み、ギュッとその背に手を回した。
「私も、お母さんいないの。……私が小さい頃、死んじゃったの」
 渚はそっと美帆を包み込む。
「みんないるのに私だけいなくて……。だから私、ずっと一人ぼっちだと思ってたの」
 腕の中で美帆がしゃくり上げている。
「だから、だから悲しくて、寂しかったの。でも、渚お姉ちゃんもそうだったんだ……」
 渚は美帆の頭を優しく撫でてやる。
「ねぇ、何で渚お姉ちゃんはそんなに笑っていられるの?」
「大切な人が、いるから」
 遥、政代、瑞穂、新堂、そして冬馬の顔が浮かんでは消えていく。
「でも私には、そんな人いない……」
「お父さんは、いる?」
「いるけど……」
「じゃあ、お父さんをもっと大切にしてあげなよ。私、美帆ちゃんにお父さんがいて羨ましいな」
「お父さん?」
「うん。私の分まで」
「……」
「それにね、美帆ちゃんの周りの人達とか、うさぎさんとか」
「……できるかな」
 美帆が不安そうな眼を向けると、渚はまた美帆を抱き締めた。
「できるよ、絶対に」
「……うん」
 渚は美帆の濡れた頬を払う。
「じゃ、約束しよう」
「約束?」
「明日また、ここで会おうねって」
「うん」
 美帆と約束を交わすと、渚は小学校を後にした。少し湿った八月の風が、妙に嬉しく、また物悲しかった。
 帰宅すると渚はすぐに台所に立ち、夕食の支度にとりかかった。
 さ、先生のためにがんばらなきゃ。
 渚は書斎を一瞥すると、ふっと微笑んだ。
 夕食の支度をあらかた終えると、渚は書斎の襖を開けた。
「先生ー、ゴハンです……って、こんな暗いと眼を悪くしますよ」
 急いで渚は電気を点ける。
「ああ、集中してたから忘れてたよ」
「随分がんばっていたんですね」
「ま、ぼちぼちな。で、何だっけ?」
「ゴハンができましたよ」
「そんじゃ、食うとするか」
 今日は刺身に冷奴、ウィンナーの卵とじとサラダに味噌汁だった。
「佐倉さん、これ切れてない」
 冬馬が刺身の一片を箸で持ち上げると、三つ四つと連凧のように繋がっていた。
「あ、すみません……」
「刺身にするにはそれなりの切り方ってのが、ちゃんとあるんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。まず斜めに切ってから、包丁を立てるようにして切り落とすんだ」
「はぁー、なるほど。そうなんですか」
 私って、本当に勉強不足なんだなぁ。
「ま、次からがんばってくれよ」
「はい」
「ところで話は変わるけどさ、佐倉さんは小さい時から会社にいたんだろ?」
「はい」
「会社では、何して過ごしてたの?」
「メイドとしての心得を学んだり、家事などの訓練です。空き時間にはお茶を飲んでお喋りしていたりしてましたね」
「ふーん。でも、よく佐倉さんの親御さんがそこに行かせたね」
「ええ、まあ、幼い頃から学んどけと。まぁ、家庭の事情とかもありましたし……」
「そうなんだ。何か、悪いこと訊いたかな?」
「いいえ、私は別に何とも思っていませんから、お気になさらないで下さい」
 ばつの悪そうにうつむく冬馬を渚は慌てて制する。
「結果として今の私がここにいられるのも、幼い頃からそうしてきたわけで」
「ま、そうだな」
「だから私、後悔なんてしていないんです。たとえ違う道があったとしても、きっとこの道が最良だった。そう思えるんです」
「佐倉さんて、すっごい前向きだね」
「先生は違うんですか?」
「まあね。目に見えて褒められたり喜ばれたりしないから、書いていても不安になるばかりだよ」
「でも先生、売れてるんですよね」
「自分で言うのも何だが、そうだなぁ、あっはっは。……でも本当はよくわからないんだよ。出せば出す程、俺をけなす奴もいるしな」
「みんなが納得する作品なんて、きっと無理ですよ」
「だろうな。でも俺、欲張りだからさ」
 何か、とてもそうには見えないけど……。
「だから佐倉さんが来てくれて、本当に嬉しいんだよ」
「えっ?」
「だってプロット見せたりしたらすぐに反応してくれるし、熱心に俺の作品見てくれているみたいだしさ」
「そんな、私は何も。私はただ、面白いものを面白く読んでいるだけで」
「ほら、それ。泣かせるねぇ」
 本当に嬉しそうにしている先生を見ていると、何故か私まで嬉しくなり、気が付くと、いつの間にか笑っていた。
 夕食を終えると今日もそれぞれの仕事に就いた。
「やっぱり先生には話せないよ」
 皿を拭きながら渚は肩を落とす。
「美帆ちゃんには話せたのに……」
 自分が孤児である事実。それは何故か冬馬に対して隠さねばならないと渚は感じていた。
 もし話してしまうと何だか変に憐れまれそうで、違う眼で見られそうで、そうなったら、やっと築いた冬馬との仲が壊れそうで、渚は話せずにいた。
 いや、本当はそれすらも違うかもしれない。だけど、渚にはそれがどうしてなのか、まだよくわからなかった。
 洗い物を終えると渚は書斎に入った。だがやはり冬馬はそれに全く気を払わず、黙々と仕事を続けている。
 渚にはそれでよかった。勝手に入ってきているのは渚の方で会って、もし冬馬が仕事を中断して渚に気を遣ったとしたら、渚はすぐに出ていかなければいけないのだから。
 仕事をする冬馬、待つ渚。そんな関係が終わりを見せずに続く。
 待つのも仕事のうち。
 そう教えられた渚も時間が経った頃には、次第に辛くなり始めていた。
 ……暇だよぉ。本でも持ってくればよかったなぁ。
 用事の一つも言い付けられずに寝室へ戻るのは何だか間抜けな気もしたし、何よりこうして冬馬が起きている以上、何かあるかもしれないと渚は書斎を離れられずにいた。
「……佐倉さん」
「は、はい。何でしょう?」
 ようやく冬馬が渚の方を向いた時には午前一時になろうとしていた。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「私に答えられるものならば、幾らでも」
 ようやくお仕事が来た。
 渚は微笑みながら居住いを正す。
「あのさ、もし佐倉さんに恋人がいて、その恋人を助けるために自らの命を差し出さなければならないとしたら、できる?」
「えっと……」
 うぅ、難しい。大切に思える人がいたら、そりゃ助かって欲しいけど、自分が死んじゃったら、元も子も無いんだよね。でも……。
「多分、やると思います」
 もしそこで見捨てたら、きっと一生後悔ばかりしそう。そんなの、生きてるのが辛いだけなんての、やだよ。
「じゃあ、もう一つ。佐倉さんにとって大切に思えるその人が、実は佐倉さんをそんなに大切に思ってなかったら、それでもできる?」
「……」
 私の精一杯の想いが、都合よく利用されるだけなんて、それもやだな。でも、本当に大切な人なら……。
 そこまで考えて渚はハッとした。
 私にとって、そこまで大切な人っている?
 遥、政代、新堂、瑞穂、そして冬馬の顔が次々と浮かぶが、その誰にもそこまでの想いが抱けない。
 私にとって守らなきゃならない人は誰?
 大切にしなきゃならない人は……いない?
 何故か不意に悲しくなった。
「佐倉さん?」
 先生の声に我に返る。どうやらしばらくの間、ぼーっとしていたみたい。
「あ、大丈夫です」
「答は、見つかった?」
「えっと、よくわかりません」
「そっか」
「あの、本当にすみません」
 心底すまなさそうに渚は頭を下げる。
「ああ、頭なんか下げなくてもいいよ」
 慌てて冬馬が制すが、渚の心は晴れないままだった。
「すみません、お力になれなくて」
「いや、これで充分だ。迷うと判断下せないって選択肢があるって気付いたし」
 本当に先生がそう思ってくれたのかもしれないけど、私はどうにも喜べなかった。
 先生の質問に答えられなかったと言うのももちろんあったけど、それ以上にこの十七年間で一人として本当に大切な人を見つけていないと言う自分の不運さ、そして怠慢とも言うべき今日までの歩みが、私をひどく失望させた。
「さて、それだけ聞ければ充分だ」
 冬馬は原稿用紙にささっと何かを書くと、渚に向かってにっこりと笑った。
「それじゃ仕事も一段落したから、ちょっとどうだい?」
 ずいっと冬馬は渚の前に一升瓶を差し出す。
 お酒か。呑んだら少しは楽になれるかな。
「はい。少しだけなら」
 渚は中座し、台所からコップを取ってきた。
「じゃ、今日も一日お疲れさん」
「お疲れ様です」
 コップを軽く重ねると渚は口をつけた。
「どう、酒の味には慣れた?」
「やっぱり喉が熱いですけど、何か甘い味がします」
「それでいい」
 冬馬は満足そうに微笑む。
「ゆっくり呑めよ」
「はい」
 先生の教えに従い、なるべくゆっくりお酒を口に運ぶ。
「それにしても佐倉さん、呑めるようになったよね」
「先生のせいですよ」
「きっかけは俺かもしれないけど、やっぱりこれは素質の問題だよ」
「素質、ですか?」
「そう。呑めない奴はどんなにがんばっても呑めないからな」
 そんな素質より、メイドとしての素質の方が欲しいよ。
 そうは思ってもこのかけがえの無い時間を、渚は大切に思っていた。
「そして呑める奴は、……ほら、もう佐倉さんみたいにすぐコップを空ける」
「えっ?」
 気付いてみるともうコップは空だった。
 おかしいなー、少しずつ呑んでたのに。
「もう一杯飲めるだろ?」
「あ、はい、大丈夫です」
 冬馬はまた渚のコップを満たしてやる。
「すみません」
「いや、いい。それより佐倉さん」
「はい、何でしょう」
「……いや、何でもない」
 うぅ〜、気になる。
「先生、一回言おうとした言葉を取り消すなんて、後味悪いじゃないですか」
「いや、本当に何でもないんだ」
 むぅ、まだそう言うの?
「先生〜」
 渚は冬馬の右肩を掴み、揺さぶる。
「わ、わかったってば」
「それで先生、何だったんですか?」
「いやな、佐倉さんは恋したことがあるのかなって、ちょっと思ったんだよ」
「ふぇ?」
「佐倉さんは、小さい頃からメイドに学校と忙しかったんだろ?」
「え、ええ」
「だから恋なんてしてる暇、あったのかなって思ったんだ」
「恋……」
 恋って、何だろう?
「さっきまでそう言うの書いてたからさ。ま、別にどうだっていいんだけど」
「……また先生は、私をからかって楽しんでいるんですね?」
「はい?」
「恋なんてしたことの無い私を子供だと思って、からかってるんですね?」
「いや、違うよ」
 渚はぐっとコップを傾ける。
「いーえ、そうですよ。はい、どうせ私は子供ですよ。何にも知らないし、瑞穂さんより胸は小さいし……」
「おい、佐倉さん?」
「亜紀さんみたいな色気は無いし……」
「佐倉さーん?」
「でも私だって女なんですよ。あ、恋をしてないと女じゃないって言うんですか?」
「もしもーし」
「じゃあ恋しますよ。先生を好きになります。ええ、これでいいんですよね?」
「……も、もう寝ようか」
「むぅ〜、そうやってまた先生は話をはぐらかすんですから」
 渚の暴走はそれから一時間も続いた。