プロローグ

 扇風機から送られる風には一片の涼しさも感じられない。開け放した窓からは様々な喧噪が流れ込むばかり。涼を取る唯一の手段は、目の前に置かれてある麦茶のみだった。
「今日も暑いなぁ」
 佐倉渚はメイド服の胸元をはためかせながら、麦茶を軽く一口飲んだ。
 啓神メイド派遣所。それが渚の勤めている会社の名前だった。正社員は約三十人。その他にもパートなどがいるため、随時六十人程度がここで働いている。
 それと隣接して建っている寮は築二十年程経っているものの、最近改修工事がなされたため、それほどの古さを感じさせない。
 その二階の西端の一室で、渚が涼しくもない扇風機の風に当たっていた。
「ねぇ渚、洗面器に氷入れてくれない」
 ベッドで寝転んでいる中村遥がさもおっくうそうに口を開いた。
「えっ、何で?」
「涼しくなるためよ、ほら」
 涼しくなるためと言われ、渚は半信半疑でそれを用意し、遥に渡す。
「はい、ありがと。じゃあね、次はそこの椅子を出して扇風機の前に置いて」
 わけがわからないまま、渚は言われた通りに椅子を扇風機の前に置く。
「じゃ、最後にこれを椅子の上に置いて」
 遥に渡された氷入りの洗面器を椅子の上に置くと、渚はベッドに腰掛けた。
「ねぇ、これで一体……あっ、涼しい」
「ほらね、お姉ちゃんの言う通りにすれば間違い無いのよ」
 正規のメイド達の中で自分の次に若い遥を、渚は姉のように慕っていた。遥もそれを疎ましく思わず、本当の妹のように接していた。
「はぁー、気持ちいい」
 心持ち程度の涼だったが、それでも涼しいことには変わりない。渚も遥もそんな一時の風に吹かれ、ベッドで横になり、うとうととまどろみ始めていた。
「渚、渚はいますか?」
 と、そこへメイド長の久保政代が入ってきた。渚と遥は驚いて起き上がる。
「はい、何でしょう?」
「渚、あなたにお仕事の依頼が入りました」
「ええっ?」
 お仕事? 私に?
 当惑する渚とは対照的に、政代は落ち着き払いながら続ける。
「お世話をするのは北川冬馬氏。期間は当面無期限。住み込みでお世話を希望とのことですが、できますか?」
「はい、がんばります」
「一度引き受けたら余程のことでない限り辞められませんけど、それでも大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「そう。それでは紹介者にそう伝えておきますよ。後で北川氏の詳しい資料を渡しますので、必ず目を通して下さいね」
 それだけ言うと、政代は去っていった。
 政代の気配が完全に消えると、遥が渚の方へ身を乗り出してきた。
「ようやく渚にもお仕事が回ってきたわね」
「うん。がんばらなきゃ」
「でも渚に人の世話なんてできるのかしら」
「できるよ。……きっと」
「ならいいんだけどね」
 悪戯っぽく笑う遥に渚はもう一度「大丈夫だよ」と呟いたが、その声はどこか頼りなげだった。
 きっと、大丈夫だよね。一生懸命やれば、きっと……。
 ともすれば不安に押し潰されそうな心を奮い立たせ、渚は窓の外に目を遣る。
 今年の夏は、暑くなりそうだなぁ。
 熱い風が窓から流れ込み、渚の頬をそっと掠めた。