胸に抱くもの

狂人の結晶に戻る

「ふぅ、そろそろゴハンでも作ろうかな」
 私は何度も目を通したファッション雑誌を閉じると、肩を回しながら枕元にある時計に目を向けた。十二時二十分。おなかも空いて当然の時間だ。
「何を作ろうかな、面倒だな」
 一人ごちて、私は一階にあるキッチンへと向かうため、自分の部屋を出た。
 今日は日曜日、天気も良い。何かをするには絶好の日なのかもしれないけど、私にとってそんな事はどうでもよい。この家の静けさを感じていると、天気なんかじゃ心弾まないから。
 日曜だと言うのに、両親はいない。それは今日が特別だというわけではなく、いつもそう。土日祝日おかまいなしに、仕事仕事と忙しそうにして家にいない。必死に働いてくれているから、今の私は贅沢さえしなければ、何不自由しないのはとてもありがたい事だとわかっている。
 でも昔からそう、私が小学校に通い始めるようになってからお父さんはそういう生活を送るようになり、四年生になる頃にはお母さんもそうなった。高校二年の今では、滅多に会話すらしなくなった。
 私のためとわかっていても、私は両親に愛情を抱けない。ずっとずっと昔に、落してきてしまったのだろう。そのためか、人に対して心許せる相手は一人もいない。友達も一応いるけれど、何だか上辺だけのノリで付き合っているって感じだ。
 階段を降りると、リビングへのドアを開ける。そこからキッチンへ行くのだけど、私はすぐにそこへは行かず、リビングの窓側へと近付いた。
「ビスケ、ビスケ。待たせてゴメンね。今、すぐにゴハン作るからね」
 私は窓辺で日向ぼっこして体を丸くしていた愛犬ビスケに、誰にも見せないとびきりの笑顔で抱き付くと、その背を撫でた。
 ビスケは私が三歳の時、両親にねだって買ってもらった秋田犬。だからもう十四歳になろうかという高齢なので、走るのはおろか散歩だってこの頃はあまりしない。二年前、心臓を悪くしてからはなおさらだ。名前の由来は当時、私がビスケット大好きだったから、両親がどんな名前にするのって訊いてきた時、ビスケって即答したらしい。当たり前だけど幼稚な名付け方、でも私はビスケと出会って十四年間、一度も後悔した事は無い。
 十四年、ずっと傍にいてくれたのはビスケ。私が寄せる愛情を素直に受け止めてくれ、また私に対して素直に愛情を注いでくれた唯一の存在。だから私はビスケにだけ心を開き、ビスケも私の事をよく理解してくれる。
「さっ、行こう。たくさん食べて、元気でいてよね」
 キッチンへ行くと、私はまずビスケのゴハンを用意した。すぐに食べてもいいと言ったのだが、ビスケは食べようとはせず、じっと私の顔を見ている。
「うふふ、わかってるよ。一緒に食べたいんだもんね、私と。待っててね、すぐ私のも作っちゃうから」
 両親が小さい時から私の傍にいない事が多かったからか、料理は得意だ。ちょっとした趣味にすら思っている。そうじゃないと、こんな生活に耐えられなかったのかもしれない。心の奥底で、そうわかっていたのだろう。
「今日はパスタにでもしようかな。タマネギとコンソメと……シイタケとベーコンも」
 とりあえず麺を茹でるため、大きな鍋を取らないとならない。それはちょっと高い所にあって、背の低い私は何とか戸棚を開けられても、取り出せない。なので側にある椅子を持ってきてそれに乗ると、私はぐっと体を伸ばした。
 途端、目の前が黒くなり、足に力が入らなくなった。立ちくらみだ、さっきまで寝転がって本読んでいたのに、いきなり伸びたから。
 ぐらりと大きくバランスが崩れ、しまったと思った瞬間、私の意識は大きな衝撃と共に闇の中へ消えた。

 あぁ、天井ってそう言えばこんな感じだったなぁ……。
 いつの間にか私は天井を見上げていた。ポツリポツリと汚れがあるのが何だか新鮮だけど、何で私はこうしているんだろう。何かしなければならなかった気がしたけど……どうでもいっか。今はこの気持ち良い感覚のまま、ぼんやりとしていたい。
「んぅ……ビスケ?」
 でもそれはすぐに覚めた。ビスケが私の頬を舐めているからだ。いつからそうしていたのかわからないけど、ずっと舐めていてくれていたのだろう、ベタベタする。あぁ、そうだ、ビスケのゴハン作ったから、私のを作らないとならないんだった。
 立ち上がろうとしたけど、体に力が入らない。体をすごい力で押さえつけられているみたいに、起き上がれない。一体何が起こったのだろうか。
 考えようとすれば眠くなる。でも私が目を閉じようとすると、ビスケが吠えて寝かせてくれない。起き上がろうとしても言う事をきかない体、そして異様な程の倦怠感。ふっと、すごくヤバイんじゃないかと思った。そしてもしかしてと思い、とてつもなく重い右手を頭の方へ持っていくと、ぬるりとした感触。
「これ、私の……?」
 見るとそれは血だった。それも少しばかりではなく、べっとりと付いている。ここでようやくわかった、自分は転んで頭に大怪我をしたのだと。
 どうしよう、どうすればいいんだろう。すごく眠いんだけど、焦る。でも、焦っても答えが見付からないから、ぐるぐる回るだけで、眠くなってくる。でも寝たらダメ、それだけはしてはいけない。
 とりあえず私は一つ一つ、この状況を把握してみる事にした。
 まず考えたのが、誰かこの異変に気付いて助けに来てくれないかって事。でもそれは幾らも考えるうちに、ダメだって気付いた。
 だって、玄関には二つの鍵がかかっているから。一つまでならビスケも外せる様なやつだけど、もう一つはどうがんばっても無理。それを開けるのは今の私では無理だし、外から開けるとしても両親以外に鍵を持っている人はいない。だから玄関は無理だ。
 その他の場所と言っても、変な人が入ってこないように窓なんかの鍵はどこもしっかりしている。開け放している部分はどこにも無い。ガラスだって、もし仮にビスケが全力でぶつかったとしても、割れない強度のものにしている。
 携帯は二階の自分の部屋だし、家電もここから少し離れている。十メートルも離れていないけど、今の私には果てしなく遠くに思える。キッチンだって、外からは見られない位置にあるから、私が倒れている事なんて誰も気付かないだろう。助けてと叫ぼうにも、さっき声を出した時にわかったけど、喉に力が入らないからかすれた声しか出ない。
 どうしようもないんだ。
 このまま死んじゃうんだろうか、きっとそうなんだろうな。私の人生、何だったんだろう。何のため、生きてきたんだろう。何か私、悪い事したのかなぁ……。
 見えない答えをぼんやり探っていると、ビスケが弱々しく泣きながら私の顔を舐めてきた。くすぐったくて、嬉しい。そうだ、ビスケのためにももう少しだけ生きたい。ずっと一緒、私にとって一番の存在。私がビスケの面倒を最後まで見るって決めたんだ、しっかりしなきゃいけない。
 だけど、どうすればいいのだろう。両親が帰ってくるのはきっと夜の八時過ぎ、いやもっと遅くなるかもしれない。正直、こんな状態でそんなに平気でいられるのだろうか。
 不意に玄関チャイムが鳴った。人だ、誰か来たんだ。誰でもいい、助けて。
「たすけ、て……」
 でもダメだ、叫ぼうとしても声が出ない。出そうとしてもおなかに力が入らないから、喉から声が出る頃にはすごく小さいものになってしまう。
「ビスケ、お願い」
 ようやく私はそれだけ言うと、ビスケの足をポンと叩いた。ビスケはそれで全てわかってくれたらしく、一目散に玄関へと駆け出した。一体ビスケのどこにあんな走る力があったのかわからない、ビスケのどこにあんな大きな声で吠える力があったのかわからない。ビスケも必死なんだ、動かすのもやっとの体を私のため一生懸命に。
 涙が少し出てきた。でも今はこらえよう。泣くのは早い、ビスケの帰りを待たないとならないのだから。でも、心臓の悪いビスケがあんなに吠えているのを聞いていると、不安でたまらなくなる。
 お願い、気付いて。この異変に。
 もう一度チャイムが鳴った。ビスケの声も途切れ途切れになってきて、最初よりは弱々しくなっている。あぁ、この体が動くのなら。ちゃんと声が出せるのなら。
 けれどチャイムはそれきり響きはしなかったし、掛け声も聞こえてこなかった。帰ってしまったのだろうか、どうなんだろうか。
 気付いたらビスケの吠える声もいつしか止んでいて、どこか遠くで車が走る音だけが耳に響いていた。
 やがてビスケがしょんぼりと、力無い足取りで戻ってきた。肩で息をしながらも、すごく申し訳無さそうにして私の傍に座ると、まるでごめんなさいと言うように、一つクゥンと鼻を鳴らした。
「がんばったね、ビスケ。私、嬉しいから。怒ってないからね」
 精一杯微笑み、私はビスケの頭を撫でた。ゆっくり、ゆっくりと三度撫でる。温かいビスケに私の心が笑う。ビスケもそんな私に、甘えるように体をすり寄せてきた。
「もういいの、ビスケ。もういいから……お願いだから、ずっといて。最期まで、ずっと私の傍にいて、お願い」
 また短いビスケの声が響いた。
 あのチャイムが鳴ってから、どのくらい経ったのだろう。一日経ったようにも思うし、もしかしたらまだ十分程度なのかもしれない。その間、ずっと夢見心地だった私にとうとうはっきりとした異変が訪れた。
 寒い、すごく寒くてたまらない。
 その寒さは単純に震える寒さではなくて、もっと恐ろしいものだった。全身から血の気が引いていく寒さ、あれがずっと続いているような感覚。確かにまだ頭から血が出ているような気がするけど、さっきと違うのは足先や指先の感覚が段々と失われていっている。そしてさっきよりもずっと、眠くてしょうがない。何だかとてつもない力で、押し流されてしまいそうだ。
 死ぬとか、死にそうだとか今まで色々言ってきたけど、今度のは本当にそうなるのかな。このまま私、死ぬんだろうか。死ぬってもっと怖いような気がしたけど、何だか今はそんな事すらちゃんと考えられない。眠い。もう眠くて眠くて、どうしようもない。もう、無理かも……。
 まぶたがくっつきそうになると、ビスケが激しく吠え出した。それはもうここ数年聞いた事が無いくらい、大きなもの。もしかしたらさっき、玄関で吠えていたのもこのくらいだったのかもしれないけど、すぐ側でされているだけあって、すごい。
 でも私は感心なんかせず、慌ててビスケの頭を掴んで揺さぶった。
「やめて、お願いビスケ。静かにして、私の事はもういいから、わかったから。じゃないとビスケ、死んじゃうよ」
 けれどビスケは吠え止まない。私は何度もビスケの頭を力無い手で諭すように叩く。
「やめてよ、死んじゃうよ。ビスケ、ビスケ、お願いだから、静かにして。言う事、聞いてよビスケ……」
 涙が溢れてきた。頭が痛いからじゃない、私のせいで大切な存在が失われるかもしれない恐怖に対して。どんなに撫でても、お願いしてもビスケは吠え続けている。それはきっと、私を怒るように励ましてくれているのだろう。でも、今の私にはそれすらまるで子守唄のよう。
 またもぼんやりとした頭でそんな事を考えていると、不意にビスケが私の傍から離れてどこかへ歩き出した。
「ビスケ、ビスケ、どこ行くの? お願い、ここにいて」
 そんな呼びかけが届かないのか、ビスケはゆっくりと私から離れ、リビングの方へと行ってしまった。
「ビスケ……傍にいてよ。寂しいよ。一人はイヤだよ……」
 あぁ、私の傍にはビスケすらいない、あんなにも大事にしていたビスケすらいないんだ。結局私の周りには何も残らない、あんなに信じていたビスケすら無く、一人でこのまま死ぬんだ。やっぱり死ぬ時は一人で、私もそうして行かないとならないんだ。
 悲しくなって顔をしかめようとした時、ビスケが戻ってきてくれた。裏切られたと思った矢先だったのでそれがもう嬉しくて、私はビスケを撫でようとしたのだけど、さっきように胸に顔を寄せてくれなかった。ビスケは私の頭の方に行くと、そのままじゃれるように寝転がった。けれど私の頭に触れはしない、音でどうしているのかわかるだけ。
「ねぇビスケ、何してるの?」
 何故今そうしてるのか、私にはわからなかった。ただわかるのは、私の頭の側は血でまみれているという事だけ。
「汚いよ、汚れちゃうよ。ねぇビスケ、止めて。ダメだから、ねぇ」
 けれどビスケは息荒くしながら、体を右に左にと血でまみれさせているみたいだ。
「ビスケお願い、止めて……」
 そんなビスケ、見たくない。何とか止めさせようと私は震える手でビスケをつかもうとしたが、空を切った。ビスケがその手をかわすように立ち上がったからだ。
「あぁ、ビスケ、何でそんな……」
 再び私の目の前に姿を見せたビスケは私の血で汚れ、綺麗に手入れしていた茶色の毛並みが赤黒いまだら模様になっている。
 じっとビスケは私の顔を見詰めていた。一瞬なのか、それともしばらくそうしていたのかわからないけど、とにかく単にふざけてそうしていたんじゃないというのはわかった。でも、何でそんな事をしたのだろう。私という証を体に染み込ませたかったのだろうか。動物は人よりも、死とかに敏感らしいし。
 一声ビスケが大きく吠えると、さっと踵を返して私からまた離れてしまった。一体どこへ行くのだろうか、そう思う間も無く、バシンバシンと激しくぶつかる音が聞こえてきた。この音は……ガラス?
「ビスケ、止めて、止めてよ。そんな事したら、死んじゃうよ。そんなにぶつかっても、割れないよ」
 けれどこの声は届かないだろう。いや、きっと届いたとしてもビスケは体当たりを止めないはず。家のガラスはビスケがぶつかったくらいじゃ割れないものにしているし、ビスケがぶつかっているのはきっとリビングのガラス。そこは特に強くしてある。
「ビスケ……」
 もう声もかすれて出ない。あぁ、誰かビスケを止めて。でないとあんな無茶をしていたら、いつビスケが死んでもおかしくない。走ったり吠えたりするだけでも危ないのに、体当たりだなんて。
 そこまで考えると、私は苦笑した。私の方が死にそうなのに、何でこんな心配しているんだろう。やっぱり、私の事よりビスケの事の方が大切に思っているんだろうな。
 そのまま私は眠気に逆らえず、まぶたを落とした。遠くにビスケのぶつかる音を聞きながら……。

 目が覚めると、私はクリーム色の天井を見上げていた。自宅のとは違う。ここはどこなのだろう。
「あぁ、麗美、麗美、目が覚めたのね」
 声が聞こえた。お母さんだ。でも今は自分がどこにいるのかまず知りたかった。
「ここ、は……?」
「病院よ、岡崎病院」
 そうお母さんが目に涙を浮かべ、私の手を握る。こんな顔、いつ以来だろう。こんなに私の事を心配そうに見てくれるのなんて、いつ以来だろう。ちょっと思い出せない。
「麗美、よかった、無事で」
 お父さんもいる。お母さんと同じように、今にも泣きそうな顔で私を見詰めている。そうか、この人達もこんな顔をするって事は私に対してちゃんとした愛情を持っていたんだ。そうか、私は愛されていたんだ。
 そんな事を噛み締めているとじぃんと胸が震え、目頭が熱くなった。人の温もり、忘れかけていた親の愛情というものをすぐ側で感じられ、私の口元は思わずほころんだ。
「ビスケ……ビスケは? ねぇ、ビスケはどうなの?」
 ただ、それよりもビスケの事の方が気がかりだった。どうして私がここにいるのか、どうして病院に運ばれたのか、それはきっとビスケのおかげだと思ったから。だから、あんな無茶をしたビスケがどうなったのか、それが一番心配だった。
「落ち着いて、麗美。一つずつ話すから」
 お母さんはゆっくりと口を開き始めた。
「異変に気付いたのは、お隣の宮本さんだったのよ。何かすごい音がして、それがただならない事じゃないような気がしたからって、悪いと思いながら音のする方を見てみたらしいのよ。すると、窓にベットリと赤い血みたいなのがついているって。ビックリして近付いてみると、ビスケが血塗れで窓にぶつかってるって知って、これはいよいよ何かあるって思って、私のとこへ連絡してくれたの。それで私が急いで帰ってみたら、麗美が台所で頭から血を流して倒れているんだもの」
 すっと目を閉じたかと思うと、お母さんはすごく重い息を吐いた。
「本当に、恐ろしくなったわよ。どうしよう、もし万が一の事があったら、どうしようって。でも、よかった」
「そうなんだ……」
 そっか、ビスケが私の血を体につけていたのはそんな意味があったんだ。ただぶつかっても無視されるかもしれないから、血を付けて何かあるようにしたんだ。
「それで、それでビスケは、ビスケはどうなったの?」
 起き上がろうとした私をお父さんが慌てて優しく制し、お母さんが微笑みを向ける。
「ビスケは私がリビングに入るなり、台所の方へ少し歩いたと思ったら倒れたの。私はビスケが何かあったんじゃないかって心配したけど、その先に麗美の姿が見えたから、もっとビックリしてね。それで私は宮本さんにビスケを任せ、麗美を救急車に乗せたの」
「だから、ビスケは」
「もう、最後まで聞きなさいよ」
 やれやれと言わんばかりにお母さんは小さな溜息をつくと、私の頭を優しく撫でた。
「さっき、宮本さんから連絡があったのよ、ビスケは大丈夫だって。少し興奮して疲れているみたいだけど、じきに良くなるみたいだって。だから麗美、安心しなさい」
 ようやく私は生きたというのを実感して、笑いながら大泣きした。