マイ

狂人の結晶に戻る

 マイと出会ったのは、五年程前のある暑い夏の日だった。

 その頃の俺は高校を出たものの定職は無く、憧れの一人暮しもままならない毎日。いずれ成功することを夢見て小説を書いてはいるものの、採用など遠い世界の話。親しかった友達は大学や会社で忙しくて会うこともままならず、まぁ言ってみれば孤独だったんだ。
 あの日も一人何するわけでもなく、ぼんやりしながらいつもの散歩コースを歩いていた。コースと言っても毎日同じってわけじゃなく、ただ決まって河川敷を通るからコースと言っているだけ。
 そんなわけでムッとする陽気の中で河川敷を散歩していたら、何か草むらの中で動いているものが目に入った。
 子猫だった。トラ模様の小さな子猫。
 他の野良猫や犬、またはカラスにでも襲われたのか、血だらけだった。茶色い毛が赤く染みついていて、見るも可哀想だった。その上、この暑さだ。放っておけばこの力無く鳴いている瀕死の子猫は死んでしまうだろう。
 可哀想だとは思ったけど、所詮は野良猫だ。関わる言われも無いし、厄介なことはごめんだ。
 足早に通り過ぎよう、早く忘れてしまおう。そう思っていても、つい気になってしまう。子猫はもう十メートルくらい後ろだ。このまま振り返らずに行こう、行ってしまおう。
 だけど、気付けば俺は子猫の前にかがんでいた。俺には関係の無いこと。そう思っていても妙に気にかかる。それに、死なれでもしたら寝覚めが悪い。
「頼むから、死ぬなよ」
 そっと子猫を抱えると、俺は近くの動物病院へと散歩コースを変えていた。
 子猫は治療してもらい一命を取りとめたが、その分の金も結構なものだった。一体俺は何をしているんだろう。ただでさえ少ない生活費を、どうして見ず知らずの猫なんかに。
 だけど、不思議とこの子猫を責める気にはなれなかった。
 手当てしてもらった子猫を元の場所へ連れてきたものの、またそこに放っておくのは気が引けた。ここに放してやってもまた襲われるかもしれないし、生き残ったとしても保健所行きが待っている。こいつには帰る場所が初めから無かったんだ。
 少し考え、俺はこいつを飼うことに決めた。アパートで動物を飼うことは禁止されていたけれど、大家さんに事情を話すと、すんなりとはいかないまでも、承諾してもらえた。
 いつまでも子猫やこいつと呼ぶのも何なので、俺はマイと名付けた。名前は本当に思い付きで理由も何も無かったけれど、何となく似合っているように思えた。そうした名前をすんなり付けられたことが、嬉しかった。
 こうして俺とマイの生活が始まった。
 治療してもらったとは言え、マイはまだよたよた歩くだけで精一杯だった。そんなマイを見ているとなけなしの金でも何とかしてやりたく、俺はマイの生活用品を買った。
 買う程に生活は苦しくなっていったけれど、満たされていくものもあった。友人とも疎遠になり、彼女もいない俺の話を聞いてくれるのは、マイだけだったから。
 力無い足取りで俺の側へ寄り、身を擦り寄せたり、話しかければじっと俺を見詰めるマイに俺はひどく癒された。何も上手くいかないと思い虚無の中にいた俺に、明かりを灯してくれたのはマイだった。
 だから、俺は俺の半分をマイに与えた。
 次第に回復し、成長していくマイ、よりなついてくるマイを見ていると、俺の生活は明るく楽しくなっていった。何と言うか、生活に張りが出来た。
 そして、そうした時を重ねる程に、マイと生活していることが日常となり、欠かせない一部となっていった。
 恋をした時、フラれた時、バイト先で失敗した時、自信作が選外になった時など、数え上げればキリがない出来事の中で、マイはいつでも側にいてくれ、話を聞いてくれ、俺を慰めてくれた。
 辛い時、楽しい時、振り返ればいつもマイがいて、一緒に笑い合っていた。
 春には一緒に近所の公園で花見をした。ビールを少し舐めさせると、イヤそうな顔を俺に向けていた。
 夏にはよく河川敷を散歩した。出会った場所を一緒に眺めては、互いに今の生活を噛み締め合った。
 秋には舞い散る木の葉を一緒に踏みしめた。風に吹かれ飛ぶ枯葉を追い駆けじゃれ合っては、得意気に俺の方をよく振り返っていた。
 冬には寒い我が家で寄り添い、暖め合った。特に寒い夜には一緒の布団で微笑み、体を丸め合いながら眠った。
 共に幾つもの季節を重ね、思い出を重ね、側にいて笑い合う日々を当然に思えていた。
 マイと一緒に生活して三度目の春、ついに応募した小説が最終選考まで残った。小さな賞だけど、大きな一歩になるかもしれない。ようやく夢が叶うかもしれない。道が見えてきた。
 これでマイにいいものを食べさせてあげられる。余裕が出るかもしれない。そう思うだけで堪らなくなり、俺はマイを抱き締め、共に喜び合った。
 だけど……マイの元気は次第に無くなっていった。
 最初は機嫌が悪いから遊ばないのかと思っていたが、それにしては妙な胸騒ぎを覚えたので、俺はマイを病院へ連れていった。
 マイは病気にかかっていた。しかももう治らないらしい。医者が何か色々言っていたけれど、弱っているマイと治らないという事実に、俺の頭は真っ白になっていた。
 どうして気付いてあげられなかったのだろう。自分が情けなかった。悔やんでも悔やみ切れなかった。
 時はもう、戻らない。
 日に日に弱っていくマイを見ていると、挫けそうになり、どうしようもない深い悲しみの底で膝を抱えてしまいたかった。
 だけど、俺は泣かないことを誓った。泣いたらマイが悲しむだけだ。俺も辛いけど、それ以上に辛いのはマイの方なのだから。涙の思い出よりも、笑顔の思い出を重ねていこう。マイのためにも、俺のためにも……。
 セミが鳴く頃にはもうマイは以前程動けなくなっていたけれど、それでもよく俺の方へ擦り寄ってきた。走り回った遊びはもうできないけど、そんなこと関係無かった。
 指を突き出せば捕まえようと必死になるマイ、ひっくり返してお腹をくすぐれば手足をじたばたさせるマイ、寝ていればいつの間にか俺の横にいるマイ。
 触れれば温もりが伝わった。だけどそれはどこか悲しい温もり、別れの暖かさ。
 なるべく別れを考えないようにはしてきた。考えるだけで辛くなるから、目を背けていた。だけど、もうほとんど動かなくなったマイを見ていると、一人泣きたくなる夜もあった。
 ヒマワリが枯れ始めた頃、マイは食事すらまともにできなくなっていた。水に溶かして与える食事も満足にできなく、目に見えて痩せていく姿を見るのは辛かった。
 それでもマイは俺を見詰め、力無く鳴いていた。まるで「悲しまないで、ずっと一緒にいるから」とでも言っているように。
 そんなマイに俺は優しく撫でるだけで精一杯だった。力無いマイを、無力な自分を励ますように何度も、何度も……。
 そして四度目の冬、雪降る夜にマイは俺の膝の上で安らかに目を閉じ、そのまま起きることの無い眠りについた。
 それは本当に安らかな寝顔で、一見しただけではわからないかもしれないけど、確かに別れがそこにあった。
 俺はマイを抱き締めた。僅かに残っていたマイの温もりが胸を激しく揺らしたが、俺は必死に誓いを守った。
 泣いたら、マイが安心できないから。

 そして今、俺はマイの墓の前に立っている。小さなその墓を、桜の花びらがそっと飾っていた。
「マイ、俺やったよ」
 手元には受賞した小説『マイ』と、その通知書。誰よりも先にマイに報告し、共に喜び合いたかった。抱き締めてやることはできないけど、きっとマイも喜んでくれていることだろう。
「お前はよくこれを覗き見していたよな。中身知っているかもしれないけど、まぁ見てくれよ。俺、お前がいなかったらこれは書けなかっただろうからな」
 小説と通知書を墓に埋めると、俺は手を合わせ、マイの墓に背を向けた。
 泣かないと誓ったのに、マイと共に歩んだ歴史をマイに捧げた途端、俺は涙を止められなくなった。
 桜の花びらが、俺の頬に張り付いた。