小さな手紙

狂人の結晶に戻る

 いつもそうだった。
 出会いも別れも突然訪れては私の心を乱す。私の気持ちは何一つ考えてくれず、それらは急に訪れては私の穏やかな世界を波立たせる。
 あの人がそうだったから……。

 一年前、私は男の人の腕の中にいた。彼は先輩の知り合いで、二つ上の人だった。何でも先輩が私のことを話したら気に入ったとかで、ある日突然紹介された。
 それは本当に突然で私はどうしようかと考えたけれども、とりあえず先輩も一緒に行くからとのことで私達はゴハンを食べに行った。
 彼は面白く、それでいて真面目な人だと言うのが私の第一印象だった。常に場を盛り上げてくれたし、私達の話もちゃんと聞いてくれた。
 そんな彼だったから、私も心を許したのかもしれない。本当は最初の一回だけで終わろうとしていたんだけど、どこか私もそんな彼をもっと知りたいと思い始めていた。
 何度か会って、何度も話して、そうしてお互い目を見ているうちに、それがいつしか日常になっていった。彼と一緒にいるのが当たり前になり、彼に会えない日がどうしようもなく寂しく思えてきた。
 はっきりした告白の言葉は無かったけれども、そんなものはもういらなかった。私は彼との生活を求めていた。彼も私との生活を望んでいた。
 楽しかったと言うよりは穏やかだった。時にケンカをすることはあっても、いつも心寄せ合い微笑んでいた。
 でも、幸せは簡単に壊れちゃう。ふとしたすれ違い、お互いの意地、そして時間。気付いたら私は彼から離れていた。そしてもう戻る事は無かった。
 それでも思い出は甘く優しく、時に切なく私に語りかけてくれる。ふと蘇るのは嫌な思い出だけど、思い出すのはいつも綺麗なまま。それがとても居心地がいいから、私はそこにずっと留まろうと思っていた。
 この手の中にある小さな手紙を受け取るまでは……。

「ありがとうございました」
 焼き立てのパンの匂いがふわりと漂うこの職場。お昼時は賑わうこの店もこの時間になれば少し落ち着く。もう少しで休憩に入るから、それまではがんばろう。
 売り場に人は少なく、少し遅い昼食を買いに来ている人が二三人いる程度だ。レジは二つあるので混雑する事は無いだろう。
 あっ、また来てる。
 パンを選ぶ人の中に、いつも来てくれている男の人が見えた。毎日同じくらいの時間に来てはうろうろと迷い、そうしていつもマヨネーズパンとオニオンサンドを買いに来る。
 一日に結構な人が来るこの店でも、常連の顔はわかってくる。特に彼はいつも私のところで会計をするから、仲間内でもよく話題になる。気があるんじゃないのかと茶化されたりもするけれど、決まって私は笑って誤魔化す。
 そしてその人はやっぱり今日も私のところへ来た。だけど私は一見さんと同じような応対をする。
「三百二十八円です」
 彼はサイフから四百円を出す。いつも通りだ。私もその辺はわかっているのでお釣りをすぐに用意する。
「七十二円のお返しです、ありがとうございました」
 お釣りを返しパンの詰まった袋を渡すと、彼はメモ帳を折り畳んだような小さな紙を私にすっと差し出してきた。
「あの……」
 突然のことに驚き戸惑っていると彼は照れ笑いを口元に浮かべつつ軽く一礼し、パンの詰まった袋を手に去っていった。私はしばらく彼を目で追うとその紙をポケットにしまい、すぐにまた笑顔を作った。

 休憩時間に入ると私は人目につかないようポケットの中からその紙を取り出し、広げてみた。

『お話したいことがあります
 もしよろしければ今日八時に
 駅前のファミレスに来て下さい』

 たった三行だけの簡潔な手紙。だけどそこから何か強い訴えのようなものを感じた。
 何を話したいのか大体の察しはつく。でも私はどうすればいいのだろうか。
「ねぇ、何それ?」
 驚いて声のした方へ振り向くと同じバイト仲間の智絵がいた。慌てて手紙をポケットにしまい込んだが、遅かったようだ。
「隠さなくてもいいじゃないの」
 そう何度も促されるうちに私も智絵ならいいかと思い、手紙のことを話した。智絵はしばらく小首を捻った後、私の顔を覗き込んできた。
「さつきはどうしたいの?」
「それが、よくわからないんだよね」
「わからないかぁ。でもさ、その人だって毎日さつきに会いに来て、ようやくこうして手紙を渡したってことは真剣だってことじゃない」
「それはわかるよ……」
「タイプじゃないの?」
「そういうことじゃないよ。真面目な人とは思うけど、どういう人なのかわかんないもん」
「じゃ、会えばいいだけのことじゃないの。どっちにしろ中途半端な状態ってのはお互いよくないよ」
「うん……」
 ポンッと私の肩を叩くと満足そうに智絵はどこかへ行ってしまった。だけど私の心はまだ見えてこない。
 私はまだ過去を引きずっている。その甘く優しい思い出にまだ浸っていたいと思うのは、きっと辛い思いをしたくない表れなのだろう。
 好きになればまた辛くなる。けれどこの手紙を受け取った時から、どこかでまたあの感じを求め始めているのかもしれない。
 どうして求めてしまうのだろう……。
 あんなに恋を、出会いをもうしないと決めたのに……。
 でも……もうその甘えを断ち切る時なのかもしれない。いつまでも過去に縛られて生きていくよりは、この殻を破って新しい世界で生きていくほうがいいのかもしれない。少なくとも今の私はそうなのだろう。
 私はもう充分そこにいた。辛い傷を癒すための思い出はいつしか私を縛っていた。何かが変わることを怖がっていた。
 新しい世界に踏み出す一歩はいつも怖く、今いる世界はとても落ち着いている。けれど、そうして留まってばかりだとダメになる。
 会おう。とりあえず会ってみよう。会ってダメならそれでいいじゃない。何もしないでいつまでも悩むよりは、納得いくまで動いた方がいい。もう少し自分の気持ちに素直に向き合ってみよう。
 私はもう一度そっとポケットの中の小さな手紙に触れてみた。

 仕事を終えると目的のファミレスに向かった。私もよく行く場所。だけど今日はそこへ近付く程に胸が高鳴ってくる。
 あぁ、この気持ち、長いこと忘れていた。
 店に入り、入り口から彼を捜してみる。いつも会っていた顔、忘れるわけがない。
 二度店内を見回すと、コーヒーを啜っている彼の姿が目に入った。途端、胸が心地よく締め付けられたような感じがした。
 あぁ、何かが変わるかもしれない。この先に何が待っているのかわからないけど、今までとは違う世界に踏み込める。私はまた私と素直に向き合える。
 だって、彼が笑顔を向けた瞬間から、私はもう恋をし始めていたのだから。