金色の月

狂人の結晶に戻る

 夜も次第に更けてゆき、街は別の顔へと変わる。月は金色に輝いているが、派手なネオンサインにその存在を消されている。まるで僕のようだ。誰からにも本質を見られる事は無いが、外面の存在だけは知られている。眺められてはいるが、観られる事は決して無い。気付いて欲しい相手がいたとしても、派手な光に本質を消されてしまい、いつまでも気付かれはしない。
 吉川隆史は五人の友人達とカラオケに興じていた。いや、厳密に言えば少なくとも隆史だけは上辺だけでしか楽しむ事ができなかった。それは隣に座っている渡辺雪子の存在が、彼をカラオケどころにはさせなかったためである。
 隆史は常に四、五人の気の合う友人達と行動していた。これは一人でいるとどうしても時の重さに耐えられないが故の行動であり、見る者によっては逃げともとれるものだった。
 しかしそれでも、隆史は誰に何と言われようともこの友人達が好きだった。そこには隆史のいるべき場所があったから。何も言わずに受け入れてくれる暖かさ。そんな仲間達の一人、渡辺雪子に彼は恋をした。
 最初は何て事の無い存在だった。無論、邪な考えがあって一緒になったわけではない。単に彼女持ち前の明るさと積極性が、隆史達との相性に合致しただけだった。隆史にしても渡辺雪子という人物は、女性というよりは性別を越えた対等な仲間だと思い接していた。
 だがしかし、雪子と接するにつれ隆史は徐々に彼女に惹かれていった。隆史を惹きつけた彼女の最大の魅力、それは屈託の無い笑顔だった。
 その笑顔は隆史以外の人間から見たとしても何の変哲も無い笑顔に見えるだろうが、彼にとってそれは力だった。何でも可能にできそうな不思議な力を与えてくれる笑顔。全てを癒してくれるような笑顔。そうしてまた明日もそれを見ようと生きる希望の笑顔。
 そう、いつからだろうか、あの笑顔に心奪われたのは。そしていつからだろうか、彼女の姿を目で追うのが日常となったのは。そしてその姿を見るたびに安らぎと心苦しさを得るようになったのは。
 恋が始まると何て事の無かった日常でさえ、不自然なくらいに敏感になってしまう。瞳を見るのも、声をかけるのにもためらいがちになってしまい、親しくなりたいという気持ちとは裏腹に自ずと距離を置いてしまう。勿論彼女はこんな気持ちなど知る由も無いので今まで通りに接してくるが、その無邪気さに僕は一層苦しめられる。
「ほら、隆史の番だぞ」
 不意に隣に座っていた昌弘にマイクを渡されると、隆史は雪子を誰にも気付かれぬ様に一瞥してから流行のラブソングを歌い始めた。これも雪子が好きな歌手の歌を、隆史が必死に練習したものだった。

 いつの日からか君しか瞳に入らなくなった
 悲しい記憶にはしたくない

 歌に込めた自分の気持ち。届かないとわかってはいても、ラブソングに乗せて擬似告白をしては心の靄を少しでも晴らそうとする。が、歌えば歌う程に、想えば想う程に僕の心は縛りつけられていき、いつも最後には身動きがとれなくなってしまう。

 偽れないこの気持ち もう止まらない
 心から君に捧げるよ 「愛してる」と

 あぁ、こんな風に歌では無く堂々と言う事ができたとしたら、どんなに楽になれるだろうか。彼女を心から愛している自信はあるが、僕にはこの口から素直に想いを伝えられる自信が無い。
 そう、僕は臆病者だ。好きだとか愛しているだとかを日々思い、それを伝える術もとっくの昔から知っているのだが、傷付く事を極端に嫌う本心はそれを実行に移そうとはしない。まともに彼女の顔さえも見られないこんな自分に、僕は何度嫌気をさしただろうか。
 我を忘れて何かに没頭している時は、様々なしがらみから解放されたみたいで心地良いのだが、何かのはずみで現実を思い出してしまうと自分がとても恥ずかしい存在に思える。
 今だってハードロックを激唱したり軽快なポップスに心を躍らせようが、何かのはずみで素顔へと戻ってしまう。悲しいバラードで己の心を慰めようが、所詮は刹那の安らぎでしかない。僕が何をしようが、世界は何も変わってはくれない。ただ自分がどんどん惨めになるだけ。

 今までの世界を壊して あなたと二人の世界を創ろう
 どんな世界になるかのかなんてこれから決めていこう

 二人の、僕と彼女の世界が誕生するのならば、どれほど素晴らしい事だろうか。ただそれには、今この身を置いている世界から抜け出なければいけない。馴れ合いの友人達や、眺めているだけの彼女との、進展も崩壊も無いひどく居心地の良いこの世界から。
 そんな事はできない。今いる心地良い世界を壊す力も、新世界の重圧に耐えられる力も、僕は持ち合わせてはいない。あの周囲の眼が変化する瞬間、彼女の態度が僅かながらも変化する瞬間、それら瞬間の重みの中で僕は生きてゆけそうにも無い。世界中の時計が一秒ずれただけの些細な変化でさえ、僕の世界と心を狂わせるには充分過ぎるのだから。
 隆史が歌い終わると、適当に拍手と歓声が沸き起こった。しかし隆史の心が満たされる事は無かった。隆史はマイクを置くと雪子の方を向き、作り笑顔で微笑みかける。雪子はそれに微笑み返すと、隆史の目の前で軽く拍手した。
 次は雪子の番だった。彼女はつい先程まで隆史が握っていたマイクを手にすると、軽快なサウンドに乗って歌い始めた。
 美しかった、何もかもが。マイクを持つ手も時折見せる艶やかな瞳も、心をくすぐる赤い唇も微かに靡く甘い香りのするショートヘアも何もかも全てが、僕の心を強烈に惹きつけては離さない程に美しかった。
 ガラスの様に繊細で澄んだ歌声が室内に響き渡る。掴むと音も立てずに崩れてしまいそうなのだが、しっかりと芯のあるその歌声は、いたずらに僕の心を掻き乱す。そう、彼女は僕を最も安心させてくれる存在であるのと同時に、最も僕を困らせる存在でもある。
 僕は彼女が歌っている最中、彼女を凝視する事もできず、ただぼんやりとした頭で目映いばかりの画面を見詰めては彼女の歌に酔う事しかできなかった。

 あれから二時間程歌うと、僕達はカラオケボックスを出た。十月の中旬ともなれば夜風もかなり冷たく、暖かい店内から出たばかりだと自ずと首を竦め身震いしてしまう。行き交う人々もこの寒さにはこたえているらしく、首を竦め手をポケットに入れながら足早に歩いている。
 僕が店を出てから俯いて先程の彼女の姿と歌声を思い返していると、きっと友人達は僕が元気無さそうに見えたのだろう、「どうかしたのか?」との声をかけられた。僕はその声にひどく驚いたが、急いで地の心を隠すために道化の仮面を被ると、すぐさま戯けてみせた。
「いや、別にどうもしてないよ」
「そうか?」
「ああ、俺も年取ったからだろうな。若くはないんだよ」
「若くはないって、お前、同い年だろうが」
 隆史はそう言われると道化の顔で周りの友人達と哄笑したが、胸の奥に渦巻いている黒い靄は幾ら笑っても晴れそうにはなかった。
 僕は人並みの勇気が手に入るまで道化師でいなければならない。他人に全てを見せてしまうと傷付けられそうだから、僕は全てを隠さなければならない。たとえ腹を割って話してくれる様な友人でさえ、僕はライトに照らされない舞台の上でいつ終わるとも知れない道化師を演じ、見せなければならない。
 隆史は昔、とある友人に裏切られた時から心にこの誓いを刻み込んでいた。そしてそれは多分、一生消える事はないだろう傷。
 中学二年生の頃、親友と思っていた友人に恋の相談を持ちかけた事があった。初恋の相手は、その親友と同じクラスの子だった。
 彼女はとりたてて美人とか可愛いという訳ではなかったが、ただそこにいるだけで皆を和ませてくれる魅力があった。
 そんな彼女の魅力に隆史は強く惹かれた。辛く苦しく、出口の見えないトンネルで迷っている時も、彼女を遠くからでも眺めているだけで癒された。全てを吹き飛ばしてくれる程の力が彼女にはあった。
 だから隆史はその子に強く恋い焦がれた。だけどどうすれば意中の彼女に想いを伝えられるのか分からなかった。手紙を書こうにも巧い文句が浮かんでこない。電話をしようにも相手の親が出てきたら尻込みしてしまうだろうし、直接告白しようなどという勇気は微塵も無かった。
 そのため幾日も悩んだ挙句、親友にこのことを相談に持ちかけた。これまでの悩みや苦しみを彼は全て受け止めてくれたどころか、親身になって助言も与えてくれた。隆史は自分の心に溜まっていたもの全てを吐露した事により、晴れやかな気分になっただけでなく、彼に心底感謝したものだった。
 しかしそれから一週間後、隆史は見てしまった。見たくはなかったのだが、一度見てしまうと目を背ける事ができなかった。恋の相談を持ちかけた彼が、親友と思っていた筈の彼が意中の女性と付き合っていたのだ。街中で二人を見た時、隆史は呆然自失となり、人混みの中に佇むだけで精一杯だった。
 後で今まで親友だと思っていた彼と隆史との共通の友人を通じて聞いた話によると、彼は隆史からの情報を存分に使い、彼女を射止める事に成功したらしかった。
 だから今、隆史には親友と呼べる友がいなくなってしまった。親友という互いの心をより深く知る間柄になってしまうと、また裏切られそうで、傷付きそうで怖いからだ。再びあの悪夢が蘇りそうで恐ろしかった。
 雪子について臆病になってしまうのも、きっとこの経験がトラウマとなっているのだろう。女性を好きになると傷付いてしまう。心のどこかでそう思い込んでしまっているからに違いない。
 人はよく痛み苦しみ絶望の坂を乗り越えた時に、その辛さを補ってもなお余る幸福が訪れると言うが、最も信じていた者に裏切られるもの程辛い事は無いだろうし、それが起こってしまうと立ち直れなくなってしまう。
 そんな事があって、隆史は心に深い傷を負ったまま、今まで歩んできた。もう日常で得られる以上の幸せはいらないと思って歩んできた。しかし今、渡辺雪子という女性にその誓いを破られようとしている。
 夜風が身を切る冷たさで通り過ぎて行く。隆史達は一様に身震いすると、各々の顔を見合わせた。時刻はそろそろ十時を回ろうとしている。
「これからどうする、まだ遊ぶか?」
「俺はどっちでもいいよ」
「私はもう少し遊びたいな」
「私、今日はそろそろ帰るわ」
 彼女が帰るとなると、残念ながらここにこれ以上いても意味は無い。僕もそろそろ帰るとしようか。
「俺も今日はそろそろ帰るよ」
「え、お前も帰っちゃうの?」
「ああ、今日はあまり金も無いしね」
「そうか。そしたらまだ遊びたい奴ってどれくらいいるの?」
 これ以上残ると言ったのは僕と彼女を除いて全員だった。僕と彼女は皆に別れを告げると、最寄りの駅まで歩く事にした。
 ネオンサインや街灯で彩られた街の中、隆史と雪子は二人で駅へと歩いていた。寒風吹きすさぶ中、隆史は至上の幸福を感じていた。何故ならば、こうして彼女と二人きりになる事など今までそうは無かったからだ。
 人混みの中を歩いているのにもかかわらず、僕達の周りだけ時間の流れが違っているように思えた。いや、正しくは僕の周りだけだろう。彼女の方は僕といても何も感じないだろうから。けれどそんな事は少なくとも今の僕には関係無かった。彼女が隣にいる。ただこれだけで充分なのだから。
 しかしこのまま無言で歩き続けるのには耐え難かったし、何よりも折角の貴重な時間が無駄に思えた。彼女の方もこの沈黙は辛いはずだろう。僕はこの状況を打ち破るために彼女に声をかけようとしたが、切り出しの話題を何にしようか、どう第一声を発しようか言葉に窮してしまった。
 難しく考える必要は何も無い。そうわかってはいても、それを実行には移せなかった。最初に共通の、それも盛り上がる話題を持っていかなければ、全て失敗してしまうのではないかという恐怖にも似た不安が、僕の心を占めていた。
 しかしだからといってこのまま黙り続けるのは嫌だった。隆史は不安を何とか押し切ると、心の中では雪子の表情の機微に戦々兢々としながらも、必死に平静を装いながら口を開いた。
「なぁ、今度の日曜に倉本達のライブがあるらしいんだけど、渡辺は行くのか?」
「うん、もちろん行くよ。たしか七時半にジオットルームってとこだよね」
 彼女もやはり何かしらの話題を待っていたらしく、すぐに隆史の話に同調した。隆史は今までの不安から幾分か解放されると、この灯火が消えないように戦々兢々しながら、すぐに話を続けた。
「ああ、そうだよ。そういえば倉本、次のライブでオリジナルの曲をやるっていってたな」
「え、本当? すごいね、自分で曲を作るなんて。才能あるんじゃないの?」
「そうだな、あいつならあるかもしれないな。でも意外だよなぁ、クラスではいつも大人しい奴なのに、ライブの時はあんなになって。まるで別人みたいに変わっちゃうもんな」
「そうだよね、私も初めて倉本君のライブに行ったとき、すっごい驚いた。歌は上手だし、何よりも格好良かった」
「あぁ、すごく歌が上手だったよな」
 この時、僕は恥ずかしながらも『格好良い』倉本に嫉妬していた。と、同時に倉本が羨ましかった。何のとりえも無い僕には、他人に尊敬されるような事は到底成し得られないからだ。だからいつも他人の目を引くために道化の仮面を被り、笑顔だけの道化師を演じている。それはたまらなく嫌だったのだが、やらなければ誰も僕に注目してくれなくなるのが怖かった。
 隆史はそんな事を人知れず思いながらも、次の話題に移っていた。今一番隆史にとって恐ろしいものは、この場の沈黙だったからだ。
「そういえばさ、最近クラス内恋愛が流行っているよな」
 この年頃の女が他人の色恋沙汰に少なからず興味を示す事を隆史は知っていた。そしてそれは隆史の思惑通りとなった。雪子はその話題になると僅かながらも瞳の色を変え、隆史が思っていた以上に話し始めた。
「そうだよね、最近多いよね。石本君と幸代もそうだし、笠井君と恵美もそう。小石川君と早苗や、関口君と原さんもそうだよね。これだけでも結構多いけど、他にも隠れて付き合ってそうじゃない?」
「それなら野本と和田も怪しくないか? あいつらいつも二人でいるからさ、きっとそうだと思うけどな」
「そうだね、あの二人もかなり怪しいけど、根岸君と大森さんもそうじゃないかな?」
「なんだ、そしたら半分くらいはそうなんじゃないかよ。それじゃあ渡辺はどうなんだ、誰か好きな奴、とまではいかなくても誰かいいなと思う奴はいるのか?」
 隆史の言葉に雪子は一寸困った様な顔をしたが、すぐにそれを笑い飛ばした。
「そんな人いないよ。いたらいいなとは思うんだけど、思う止まりだねぇ」
 雪子の台詞を聞くと、隆史は少し肩を落とした。雪子の台詞を聞く限りでは、彼女は誰にも恋愛感情を持ってはいないらしい。それは勿論、吉川隆史に対しても何も抱いてはいないという表れでもあった。
 隆史は他に競争相手がいないのを幸運だと思えばいいのか、恋愛対象が自分に向いていないのを残念がればいいのかわからず、複雑な気分だった。
「それじゃあ、吉川はどうなの?」
 雪子の質問に、隆史は正直戸惑った。ここで彼女に好きだと思い切って言おうか、それとももう少し様子を見ようか? その場合にはどうごまかそうか?
 はっきり「いない」と嘘をついて会話を終わらせても良かったのだが、折角の機会なのだからさりげなく恋をしている事を仄めかそうかとも考えた。しかしその対象が隣にいるためか、巧い文句が出てこない。隆史は結局納得のいく文句が浮かばなかったので、曖昧な答えを返すことしかできない。
「さぁ、どうだろうな。御想像におまかせしますよ」
「あ、そういう返し方ってずるいな」
「渡辺だって似たようなもんだろ」
「それはそれ、これはこれよ」
「何だよそれ」
「まあ、何だっていいじゃない、今は吉川の話なんだからさ。それよりも吉川、本当は好きな人いるでしょ」
 悪戯っぽく微笑う雪子の顔はとても可愛いらしいが、言葉は再び隆史を困らせた。雪子の言葉が勿論確信ではなく、詮索や冗談だとわかってはいるのだが、先程と同様に無下にはできなかった。
 隆史はしばし考えた挙句、とりあえず今現在恋をしている事だけを伝えようと決心した。本当は今すぐにでも隣の女性に愛を伝えたいのだが、行き交う人々の中でそれをする勇気は無かった。隆史は様々な葛藤を胸に抱きながらも、少し照れながら口を開いた。
「うーん、まぁ、いると言えばそうなるかな。でも決して叶いそうにもないけどね」
 決して叶いそうにもない。確かにその通りかもしれなかった。今のこんな自分だと、彼女が僕の事なんて好きにはなってくれそうにもなかったし、何よりも自分自身が彼女と一緒になろうとするのを怖がっている部分があった。
 何故そう感じるのかは隆史自身よく分かってはいなかったのだが、多分今まで女性と付き合った事がなかったが故の、未知への恐怖というものなのだろう。渡辺雪子という女性が好きでたまらないのに、それを拒んでいる矛盾した心。隆史はそれを振り払うように雪子の瞳を見た。
 雪子も隆史の瞳を見詰めていた。が、しかしそれは愛情によるものではなく、隆史が誰に恋心を抱いているのだろうかという興味の眼差しだった。
「ねぇ、吉川の好きな人って誰なの? 教えてよ。誰にも言わないからさ」
 お前だよ、とは言えない。いずれこの想いを伝えるのならば今伝えるのが一番いい筈なのに、どうしてだろうか言葉にはなってくれない。隆史は自己嫌悪を覚えながら、気取られないようにと必死に雪子の興味をはぐらかそうと試みた。
「それだけは言えないな」
「えー、そこまで言ったんだったら思い切って言っちゃおうよ。もしかしたら力になれるかもしれないからさ」
 力になれるかもしれない。確かにそうだ。力になってくれるものならば、この悩みは全て解決するだろう。しかしそれは無理な注文だ。何故ならばこの場合の協力とは第三者の立場であり、僕と愛の時間を重ねる事とは別なのだから。
 隆史は寥しく笑うと、前を見た。目的の駅はもう目の前にあった。
 駅の中に入ると、二人は暖かい空気に包まれた。待ち合い用の長椅子に座っているのは、くたびれた老夫婦が一組いるだけだった。電車の発車予定パネルを見てみると、上りも下りもつい数十秒前に発車してしまったらしい。
 次の電車が来るまでには十一分の時間があった。隆史はこの貴重な時間をどう使おうかと考えていると、雪子の方から隆史に声をかけてきた。どうやら彼女も沈黙が訪れてしまうのが嫌らしい。
「電車、出ちゃったね」
 呟く様に言い放ったその一言は、隆史の心を震わせた。どこか甘えているようで、それでいて寂しげなニュアンスが含まれた雪子の言葉は、隆史の仮面を崩してしまいそうな力があった。隆史は思わず抑圧された地の心を解き放とうかと考えたが、そんな心とは裏腹に、隆史はぶっきらぼうに「そうだな」としか返せなかった。
「……この意味も無く待っている時間って、ヒマだし無駄だよねぇ」
 発車予定パネルのすぐ上に掛かっている時計を一瞥した後、雪子は隆史に同意を求める様に訊いた。雪子の瞳には他意の色は無いが、隆史はひどい絶望感を味わった。
 待っている時間がヒマで無駄だという事は、僕と一緒にいてそう感じるのと一緒だろう。所詮、僕みたいに面白くも何ともない男といても、彼女を辛くさせるだけなんだろうな。
 あぁ、僕は何てダメな男なんだ。彼女に好意を持たせるどころか、逆に不快な気分にさせてしまうなんて。……何とかして、何とかして彼女との距離を詰めなければ。
 しかしどうやってその距離を縮めればいいんだろう? 今までなかなかできなかった事を、今ここでそう簡単にできるだろうか?
 ……いや、今まではその機会に恵まれなかっただけだ。今なら、丁度周りに人もいないし、二人きりの今ならばできるかもしれない。
 しかしそれをやって嫌われはしないだろうか? 今まで築いてきた関係が砂の城の様に脆く崩れはしないだろうか?
 ……だが彼女を手に入れるのならばここは通らねばならない関門だ。それが早いのか遅いのかの度合いはわからないが、折角の機会が訪れた今、やっておく事に損はないだろう。それにキスをしようとか、セックスをしようとかいうものではない。ただ二人で話をしようというだけなのだ。
 隆史は自分で自分を励まし、必死に言い訳をしつつ、ありったけの勇気を振り絞り、声が裏返ったりしないように平静を装いながら口を開き、雪子の瞳を見た。
「なぁ、もうホームに出ないか」
「え、何で?」
 当然の反応を雪子は返す。隆史は恐れ戸惑いながらも、何とか思いつく限りの言い訳を並び立てた。
「いや、何かここ暑くてさ。それに夜の空気の匂いって好きなんだよね。何だかこう、吸い込まれそうに澄み切っているのがさ」
「ふーん、そうなんだ。でもこう、夜の匂いって言うか、今はこの秋の匂いってのも私は好きだな。何かガラでも無いけど、いい感じなんだよねぇ」
「あぁ、その気持ち良くわかるよ。俺も秋とか冬の匂いって好きなんだよね。秋の匂いは心をくすぐる様な物悲しさで、冬の匂いが辛さと別れを象徴しているみたいでさ」
 隆史のこの一言が雪子との同調を得たらしい。雪子は僅かに莞爾として微笑むと、隆史の話に乗ってきた。
「へぇー、吉川もそんな事を感じていたんだ。何か嬉しいな。だってこんな事思ってるのって私だけかと思ってたから。ほら、なんか恥ずかしいって言うか、ちょっとくさいじゃない。あ、吉川がそうだって言ってるんじゃないよ。」
 隆史は彼女と同じ感情を一部分だけでも共有できたという事に、名状し難い喜びを感じていた。先程まで心を占めていた絶望感は何処かへと消え去り、替わりに雪子へ近付こうとする意志や自身などが隆史の心を賑わせていた。しかし隆史はそれらの感情を無理矢理平静へと置き換えると、僅かに微笑んだ。
 好きな女性の前で子供みたいにはしゃいだりするのを隆史は嫌っていた。何故だか明確には自分でも分からなかったが、我を忘れる様にはしゃいだり同調だけするのを嫌った。多分、中途半端に自分なりのニヒリズムを確立させてしまっているからなのであろう。そんなものをなまじ持っているために、時には静か過ぎ、時には何も信じられなかったりするのだろう。だから良く言えば僅かながらに大人であり、悪く言えば冷めた人間であった。
 何にしろ、雪子の同調を得た隆史は、共に券売機で帰りの切符を買うと、ホームに出た。
 ホームには三、四人しかいなかった。冷たい風が隆史と雪子の間を通り過ぎて行くが、不思議と心地良かった。澄んだ夜の空気に隆史は心が洗われていくような気がした。しかしそれ以上に、この状況に隆史の心は躍っていた。
 僕と彼女を知っている奴は、今ここにはいない。それに僕も彼女と同じ感覚を持っていると知った今、彼女は僕に多少なりとも仲間意識を持っているだろう。ホームに人が集まりだしてくるのは三分後ぐらいだろうか。それならばこの三分を、千載一隅のチャンスをものにしなければならない。今この三分を手に入れられないようならば、きっとこの先一緒になる事なんてできないだろう。
 隆史はおもむろに雪子の横顔を見た。夜風で髪が僅かに震えていて、いつもより綺麗に思えた。
 ―─今しかない。
「なぁ……」
 隆史の声に反応した雪子は、すぐさま隆史の方へ振り向いた。髪がさらりと流れ、隆史の心はくすぐられる。
「ん?」
 しかし僅かに隆史の呼びかけへの疑惑と、無邪気な微笑みが交じったその何気ない顔に、隆史の意気は消沈しそうになった。
 ……もし告白が失敗となったら、二度と彼女と一緒にいられなくなるどころか、この顔すら見られなくなるぞ。
 隆史の心の奥底から、もう一人の隆史の声が聞こえてきた。いつもこうして決断を遮る声。隆史はその声を振り払おうとするが、それは立て続けに聞こえてくる。
 ……恋愛なんて独りよがりの感情だ。相手はただの友達の一人として一緒にいるだけだ。そんな感情を抱くのは、彼女にとって迷惑以外の何物でも無いんだよ。お前の下らぬ片想いなんて、相手からしてみれば迷惑なだけなんだよ。気持ち悪いと思われてるんだよ。
 そんなものは言ってみなければわからない。
 隆史は心の中でもう一人の自分に反論した。
 彼女が僕の事を好きであろうが無かろうが、この気持ちを伝えなければ何も始まらない。
 しかしこの反論も、もう一人の吉川隆史を説き伏せさせる事はできなかった。それどころかもう一人の隆史は、渡辺雪子に恋をしている隆史の心をいとも容易く打ち破るくらい強い言葉で畳み掛けてきた。
 ……前みたいに苦しむだけの恋になってもいいのか。あの傷をお前は忘れたわけじゃあるまい。
 僕はこの言葉に完全に打ちのめされた。それは今まで築いてきた彼女との関係を崩したくはないという自己保身と、周りから今までと違った眼で見られたり嫌な噂を流されたり、あるいはからかわれたりするのを想像してしまうと、決して耐えられそうにはなかった。
 何かを始めるためには、今この身を置いている安定した世界の殻を破らなければ、新しい世界に出会えないという事は、隆史の今までの経験で悟ったとも言える人生哲学の一つだった。だがしかし彼は、隆史はどうしようもない程の臆病者であり、卑怯者であった。目の前に問題が迫ってくると、何かと理由をつけては戦う事を避けてきた。いや、逃げ続けてきた。どんな絶好の機会が巡ってきたとしても、いつも些細な事柄を言い訳にしては勝手に諦めてきた。
 今回だって今ここで告白をしたら彼女を困らせてしまうだとか何とかと、いかにも気遣った様な言い訳をしている。
 多分これからもこうなのだろう。僕はこんな性格をいつも憎んでいるが、そのくせ常にそれに従属している。彼女を欲してはいるが、ただそれだけしか考えていない。幸せにしてみせる自信の欠片も無い最低の男なのだ。
「ねぇ、どうしたの?」
 不意に聞こえてきた雪子の声に、隆史は俯きがちだった顔を驚かせながら上げた。どうやら考え事に集中し過ぎてしまい、彼女を無駄に待たせてしまったようだ。雪子は先程の隆史の呼びかけが一体何なのかと訊いてきたが、隆史はもう自分の素直な気持ちを、言葉にも態度にも表せなかった。隆史はただ「いや、何でもないよ」と言いながら、雪子の視線を外すだけで精一杯だった。
 僕はまた逃げてしまった……。
 隆史の心の呟きは具合が悪くなる程自分の中で響き渡ったが、決して誰の耳にも入る事は無かった。もうこの夜風の冷たさも夜の匂いも、心地良くは無かった。
 それから数分して電車が来た。二人はそれに乗り込むと、空席があるのにもかかわらずデッキに立った。あれから殆ど何も言葉を交わす事が無かったので、隆史は雪子がもしかしたらこんな何の話題も作れない男は苦手だと思っているのではないかと苦悶していた。
 しかしそれと同時に、何は無くとも雪子の側にいられるだけでも幸せだと感じていた。
 ドアが閉まり電車が動き出すと、隆史は一つ息を吐きながらゆっくりと辺りを見回した。老若男女実に様々な人がいるが、共通しているのは皆どこか疲れている。楽しげに会話をしている人達も、どこか寂しげだ。
 しかしそれは僕も例外ではなかった。彼女にどんな顔を、態度を見せれば良いのかわからず、結局何もせずに一人で苦悩するだけ。このままではいけない、変わらなければならないと思いつつも、自ら動くのを躊躇している。いや、拒んでいる。
 心の奥底で、彼女の方から告白してくれる事を願っている自分の存在が大きい。祈っているだけでは何も変わりはしないと充分に理解しているつもりなのだが、それでもその思いを捨て切れないでいる。
 電車の程良い混み具合と揺れが何とも心地良かった。それが僕と彼女との隙間を少しでも埋めてくれるような気がした。隆史はもう雪子との会話を諦め、ただ側にいるだけの仄かな幸せを味わっていると、不意に彼女が口を開いた。
「ねぇ、何だか今日の吉川って元気無いけど、どうしたの?」
 隆史が驚き雪子の方へ目を遣ると、彼女は僅かに眉を曇らせながら隆史の瞳を見ていた。隆史は雪子が自分の事を少しでも心配してくれている、心の機微を感じ取ってくれているという事に対し、心が躍った。しかし今の悩みは誰にも、特に彼女には言える筈も無かった。隆史は動揺する心を必死に抑えながら、何気無い口調で「別に何でも無いよ」と返すだけで精一杯だった。
「ふーん、ならいいけど」
 雪子はそう呟いたきり、また黙ってしまった。隆史はもう少し心配して欲しいという甘えと、折角彼女が作ってくれた話題を潰してしまったという申し訳無さで、またも一人苦悩するはめになってしまった。
 このままじゃいけない、せめて何でもいいから話をしよう。そうすれば黙っているよりかは遥かにいいだろうし、もしかしたら彼女についての情報も引き出せるかもしれない。
「なぁ」
 意を決して隆史は口を開いたのだが、電車が彼女の降りる駅に着いてしまった。雪子は隆史の呼びかけに気付きはしたものの、それに応える時間が無かったので、簡単に別れの挨拶を告げると、笑顔で手を振りながら電車を降りた。
 隆史も一応笑って手を振り、雪子に別れを告げると、電車は再び動き出し、隆史と雪子を引き離した。
 彼女が降りた駅と僕が離れるにつれ、僕は言い知れぬ悲しみに襲われ、思わず涙さえ溢れ出しそうになった。それはきっとこの機会をものにできなかった自分への愚かさ、そして二度と彼女を自分のものにできないであろう漠然とした未来への不安、絶望のようなもののためだろう。
 隆史はぼんやりと光の無い眼で、流れる夜の街並みを車窓から眺めていた。街灯やネオンサインがどこか幻想的で、自分が現実の世界に身を置いているのかどうかすらも忘れさせてくれる程に魅力的だった。
 家に帰ると隆史はすぐに自分の部屋へ行き、明かりも点けずにそのままベッドに寝転がった。薄闇の中で時計を見てみると、針が十時四十五分を指そうとしているのが朧気ながらにも何とか視認できた。
 家の人達はまだ、明るい居間でTVを見ては笑っている。遠くから聞こえる哄笑は、今の隆史にとって蔑むべき対象であり、また同時に羨むべきものでもあった。
 今日はもう何もしたくはなかった。早く寝付いて、今日の出来事全てを忘れてしまいたかった。けれど目を閉じると鮮明に思い返してしまう。そして自分のあまりの情けなさと、彼女への強烈な愛しさが込み上げてくる。自己の意志かどうかは定かではないが、それがまた僕を苦しめる。頭が狂いそうだ。
 振られてスッキリした方が苦しいのか、それとも今のこの状態を保ち続ける方が苦しいのか、僕にはどちらとも判断つかない。いっそ全てを忘れてしまえるのならば楽だろうなとも思うが、それを行うには僕は色々な事を知り過ぎてしまった。何よりも渡辺雪子という女性を知ってしまった。もう戻れない。幸不幸どちらかの道を進む事は可能だが、戻る事は決してできない。
 それならば、どうせ忘れる事も戻る事も叶わぬ願いならば、この想いを全て伝えたい。この想いが決して報われぬものだと自分自身良く知っている。ならば全て言ってしまった方が、万に一つの可能性につなげられるのではないだろうか? 何もしないよりかは、何かをやった方が良いに決まっている。
 今なら言えそうだ。彼女に好きだと素直に言えそうな気がする。胸に秘めた想い全てを吐露できるだろう。
 しかしそれも一人きりだからこその虚勢だという事を僕は知っている。彼女に会ってしまうと、また同じ日々を繰り返してしまう。どんなに素晴らしい機会が巡ってきたとしても、僕は結局何もできずに今日と同じ日にしてしまうだろう。
 こんな卑怯で臆病な自分に対し強い嫌悪を抱いているのだが、僕は徹頭徹尾自分を嫌いにはなれない。なまじ自分が可愛く思えるから、全てを捨てて彼女に告白する事ができない。要は傷付きたくないだけ、自己保身のためなのだ。だが、それをわかっていても愚かな僕はどうする事もできない。
 明るい哄笑はいつの間にか消えていた。薄闇の中、一体どのくらいの時が過ぎたのだろうかと時計を見てみると、いつの間にか一時を回っているのが何とか視認できた。
 家の人達はもうとっくに床についているだろう。隆史もそろそろ寝ようかと目を閉じてみたが、その先に浮かぶものは柔らかな闇ではなく、最愛の女性である雪子の微笑だった。彼女の瞳は隆史を捕らえて離さない。心の奥底まで射貫いてしまいそうな程に澄んだガラスの様な瞳。隆史の弱い心を蔑む瞳。哀れみに満ちた瞳。
 ……どうやら今日は眠れなさそうだ。
 薄闇の中でじっとしていると、時間が正確なリズムを刻んでいるのが良くわかる。一分のズレも無いリズム。心と違い、狂いの生じない一定のリズム。そんなリズムが僕の心とは裏腹に、部屋に満ちて響き渡る。まるで僕をあざ笑うかのごとく。
 これ以上この空間に閉じこもっていると気が狂いそうだ。僕は破裂寸前の頭で立ち上がると、外を見たいという衝動に身をまかせてカーテンを開いた。
 夜空には僕の心に反して金色の月が輝いていた。吸い込まれそうに目映く輝いている。悩みどころか魂も金色に染まりそうで、目眩がしそうな程にとても綺麗だ……。ただ、月の光は僕だけを避ける様に輝いている。それでもいい。今宵の月が僕を引き離してくれたとしても、充分優し過ぎる程に照らしてくれている。
 窓を開けると夜風が舞い込んできた。とても冷たく、とても心地良い。全ての迷いや悩みを忘れさせてくれるようだ。悲しみを美しさに替えてくれる色がここにある。
 明日もまた同じ日常がやってくる。また同じ夜が訪れる。苦しみの夜はいつ終わるとも知れない。月が輝く分だけ、僕の心は闇へと沈む。何もできない僕は、深く苦しい恋の沼の中へと沈み行く。
 いつまでも終わりのカーテンを下ろせない僕がここにいる。安定した大地に身をまかせるがままの心。いつまでも殻に閉じこもったままの心が安寧として暮らしている。
 夜風にあたり、色々な事を考えていた。漠然とした未来、彼女との行く末、自分自身の事。どれも闇に覆い隠されていて、何一つ見えないまま。何が幸せで、何を選べばいいのかわからない。苦しい。
 しばらくして僕は、金色の月を見上げながら涙を流している自分に気付いた。涙は頬を伝い、月光に照らされながらも儚く消えてゆくが、次々と溢れ出してくる。僕はもう闇に浮かぶ金色の月を直視できずに、ただその場に蹲って泣く事しかできなかった。
 金色の月は永遠に輝く。苦しみの夜も同じく終わりを迎えはしない……。