想いの刻印

狂人の結晶に戻る

 雨に濡れるN県T警察署の一室で、その雨よりも激しい涙を流している女がいた。両手で顔を覆い、膝に埋めながら泣くその姿は痛々しい。そんな彼女の側に立ち、見守っている二人の警官は悲痛そうな面持ちであったが、同時にどこか割り切った様子でもある。
「それで、これが彼の遺留品です」
 目の前に差し出されたのは汚れているが、彼女にとって見慣れた品々……そう、間違いない。悪い夢であって欲しいと願うけれど、それを全否定するのは彼女が彼と一緒に買った財布や、プレゼントした携帯ストラップなど。それを見ていると、彼女はまた涙をこぼした。
 宮尾晶がT警察署から電話があったのは、つい二時間前の事だった。突然の呼び出しに軽いパニックに電話口で陥ったが、彼女を待っていた悲劇はより深刻なもので、途中までの記憶を欠落させた。どこをどうやって警察署まで行ったのかを覚えていないくらい、衝撃的だった。
『宇佐美佳和さんが事故で、お亡くなりになりました。身元確認と事情聴取のため、今から署の方へすぐにお越し下さい』
 宇佐美佳和は晶の恋人だった。彼はその日の午後、N県の山道下で遺体となって発見された。事故原因はスピードの出し過ぎでカーブを曲がりきれず、ガードレールを突き破っての転落。その際、胸部への強烈な圧迫と出血による死亡であった。
 その後の身元確認はすみやかに行われた。転落したとはいえ、顔への外傷は人相もわからなくなるといった程でもなく、免許証などもすぐに発見されたのだが、やはり誰かを呼ばないわけにはいかなかった。そしてそのために呼ばれたのが、親でも兄弟でもなく、交際二年にもならない晶であった。それは恋人だからという以上に、佳和が死の間際、晶に対して何か伝えようとしていたからに他ならない。
「宮尾さん、あなたを今日ここへ呼んだのは身元確認というのももちろんありますが、お聞きしたい事があるからなんです。他にも色々あるのですが、今日はこの一件について、どうしても聞いておきたくて……よろしいですか?」
 涙を拭い、目を赤く腫らした晶が顔を上げると、警官の一人が佳和の携帯電話を開き、そっと晶に差し出した。
「宇佐美さんは亡くなってからもこの携帯を握り締めていたんですが、そこで少し妙な事がありましてね」
「……妙な?」
「あぁ、いや、妙なと言うと語弊があるんですが、まぁ気になった事がありましてね。それと言うのも宮尾さん、宇佐美さんは死の間際、あなたにメールを送ろうとしていたみたいなんですよ」
「えっ」
 晶が驚いたのも無理は無い、彼女にそんなメールは届いていないのだから。
「残念ながら山の中で電波も無く、送信できなかったみたいなんですが、送ろうとした文面は残っておりましてね。これがそうです。あっ、もし何か操作したとしても一応写真として残してありますので、その辺は大丈夫ですよ」
 そう言って警官が携帯を開くのと同時に、もう一人の警官が二枚の写真を晶の前に差し出した。それは画像の明度や解像度などの差こそあれ、文面の中身は変わりなかった。

『宛先:宮尾 晶
 件名:
 本文:約束守れなくて、ごめん』

 晶はしばらくそれを見詰めていたが、何も思い至らなかったのか、曇った顔をゆっくりと上げた。
「あの、これは……」
 呆然と晶がそれらと警官を見ると、警官は眉根を寄せながら顔を近付けてきた。
「これが恐らく、彼の最期の行動です。まぁ単刀直入に言いますと、その約束は何だったのかお聞きしたいわけなんですよ。もし、もしですよ、何らかの重要事項かもしれないので、一応参考程度という事で。いやね、と言うのも不思議なんですよ」
「不思議、とは?」
 涙を一時忘れた晶が警官の様子をうかがう。
「いやね、このメールの他に事故後、携帯を操作した様子が無いんですよ。余力が無かったと言えばそれまでなんですが、普通こうした状況ならば助けを求めると思うんですよ。メールを打つよりも電話の方が確実ですしね。けれど彼はメールにし、あまつさえそれが助けを求めるものではなく、あなたへの謝罪だった。ですから、何かあるのかと」
 真摯に求める警官の声は晶にとって、次第に遠くなっていった。死の間際、全てに優先して自分に謝ったその意味は何か、その約束とは何か晶にはわからなかったし、またその意味が殊更重い事に対し、深い苦しみを抱かざるをえなかったからだ。

 佳和の葬式は何事も無く終わった。晶と佳和の両親とはそれまで面識が無かったけれど、特にこれと言う出来事も無かった。ただお互い、大切な人を失った悲しみに打ちひしがれ、挨拶と僅かばかりの思い出話くらいしかできなかった。
 メールの事は佳和の両親も警察から聞いており、それについて晶は問われたけれど、彼女自身もあれが何の事なのかわからなかったので、答えようも無かった。思い出すように両親は促したが、やがて本当に晶がわからないと知るや、寂しげな溜息と共に納得してくれた。そして、あれは彼が死の間際に錯乱していたんだろうという結果に落ち着いた。何かしら答えを見出して納得しておかないと、どうにかなりそうだったからだ。
 そしてそれは晶も同じだった。けれど、晶には佳和が錯乱してあぁいうメールを打ったとはどうしても考えられなかった。アウトドア派の佳和とどちらかと言えばインドア派な晶、広く浅い付き合いを好む彼と深く狭い付き合いを好む彼女など性格は正反対みたいなものだったが、二人には確かな絆があり、物珍しさから惹かれたわけではないとわかっていた。だからこそ、きっとあのメールには何か意味がある、錯乱ではなくどうしても伝えたかった何かがあると、晶は思っていた。
 葬式の時もそれ以後も、晶は様々な人達に慰められた。元気を出してねとか、これから先にもいい事はあるだとか、悲しみを乗り越えてこそ糧になるだとか、ありきたりな言葉で同情されたりもしたが、晶にとってそんなものはどうでもよかった。何を言われても、もう彼は戻ってこないのだから。むしろ、ありがたいと思いつつも、余計に彼の事を意識してしまうので、辛かった。
 それよりも晶には気になる事があった。あの日から葬式や孤独な日々が晶を通り過ぎていき、日常生活にも微妙な変化があったが、相変わらず気になるのは佳和が最期に残したメールだった。あの何でもないが、不思議な文面が彼女の心を捉えて離さない。
『約束守れなくて、ごめん』
 一体何の約束をしたのか、思い出せない。彼が死の間際にまで気にかけていたのなら、すぐ思い出せそうなものだと考えていたけど、晶には何の心当たりも浮かばない。
 すっかり月が空の高みに落ち着いた頃、一人ぼんやりとグラスを傾ける。少し前までは賑やかでムードもあったけど、今はもうそんな事も無くなった部屋で、佳和と共に飲むのが楽しみだったカティーサークのソーダ割りを飲みながら、晶は考えていた。そうしていればたやすく悲しみに飲まれる事も無いだろうから、自分も彼の後を追おうと考える暇も無いだろうから。セミロングの髪をかきあげ、晶は物憂げな眼でグラスの水面を見ている。ゆらゆら揺れる水面はまるで心模様。
 まだ部屋には佳和の名残が数多くある。二つあるクッション、少し多めの食器、洗面台には色違いの歯ブラシなど、それらを見る度に晶の心は締め付けられるけど、捨てる気にはなれなかった。そうしてしまうと彼への想いが軽いと思われそうで、また自分でもそれらが無い新しい生活がどこか怖くて、晶はぐるりと部屋を見回してから、ふっと吐息一つ。そうしてグラスに目を落とした。
「結婚の約束はしていなかった。私も佳和もはっきりした将来を描いてなかったし、そんな事を話し合ったりもしなかった。夢として話した事だって無かった。そんな事、約束としてあるわけない……」
 関係のある二人にとっての最も大きな要素を捨てると、晶はくいっとグラスを傾けて、心地良い喉の焼き具合に自虐的な笑みを浮かべ、すぐに溜息と共に目を落とす。
「デートの約束だって、していない。いつかあそこに行きたいとか、ここに行こうとかって話をした事はあるけど、約束って程にしっかりと取り交わしたわけじゃない。最近は予定が合わなかったし、それにあぁいうのなんて夢希望を言っていただけだったから……」
 考えるほどに謎だった。晶は酔って重くなった頭と思考に崩れた微笑をしつつ、真面目な眼差しでカティーサークのゆらめきを見詰めては、目を閉じてうなだれる。
「誕生日でも、ない。私のは済んだし、佳和のはまだだけど、具体的な話なんてしていなかった。プレゼントだって特に、何も……」
 深い溜息をつき、眉根を寄せながら首を横に振る晶。一息にカティーサークを傾けるけれど、何の解決にもならない。窓の外にはぼんやりと輝く三日月。これまでの二十一年間で何度も見ているが、晶にとって今はそれが辛く悲しい月だった。
「嫌な月……」
 あの日、佳和が死んだと知らされた日にも月は輝いていた。今よりももう少しだけ大きかった月、けれど大きさはどうあれ、あの日の記憶にしっかりと残っている冷たい月の輝きが憎くてたまらなかった。月が彼を殺したわけじゃないけど、その輝きが晶にとって彼の死と同じ意味を持ちつつあった。
「何でよ、何で変わらないのよ」
 グラスを強くテーブルに叩きつける。怒ってもどうにもならないとわかっていても、晶には変わらず輝く月が憎かった。死の前でも後でも輝いているのが嘲笑のようで、泰然としすぎていて、でもどうにもできず、結局自分の弱さと過酷な現実ばかりが晶の胸をえぐり続けた。声無き叫びすら出ず、側にあった佳和が使っていたクッションを引き寄せると、それを抱き締め、顔を埋めた。
「どうして死んだのよ」
 ようやっと絞り出した自分の声、言葉にまた心が苦しむ。皮膚が剥ぎ取られるような、体の奥底から爆発したいような、心を掻き出したいような衝動が晶を苛む。晴れる事の無い苦しみは額に爪を立て、血を流すけれど、その苦痛によって少しでも心が軽くなるような錯覚を覚える。
「何を思ったのかもうわからないけど、約束なんてどうでもいい。どうでもいいの。そんな謝る事なんて無いのに、どうしていなくなっちゃったのよ。どうして死んだのよ。バカ、バカ、本当にもう……何でよ」
 より深くクッションに顔を埋める。このまま死んでしまってもいいくらい、強くきつく抱き締める。
「約束なんてどうでもいいよ、もう。たた無事で、生きて帰ってきさえすればそれでよかったのに、何でよ、何で佳和が死ななきゃならないのよ。どうして、どうして……」
 とめどない涙がクッションと心を濡らす。佳和が死んでから泣くのを堪えているつもりだが、こうして一人になると晶の心は脆くも崩れてしまう。こんなにも辛く悲しい思いをする約束とは何だろう、何よりも元気な顔を見たいのにと晶は暗いクッションの海に溺れ、声無き声を出す。
「無事に、どうしてあの日だけ……あの日……」
 刹那、がばっと顔を上げた晶は呆然とした面持ちで目の前のグラスを見詰める。そして涙でぼやけた瞳を服の袖でごしごしと拭うと、わなわなと肩を震わせた。
「そっか、そういう事だったんだ。約束って、あの時のあの言葉の事だったんだ」
 まだ認めたくないようだったが、やがてそれしか思い至らなくなると、晶は力無く首を横に振り、うなだれた。
「あの日、遠出するって言った佳和を見送る時に言った『気を付けて行ってきてね』って言葉、あれが約束だったんだ。あんな、何でもない挨拶、でも佳和はしっかり聞いていたんだ。だから、死ぬ直前になってまで覚えていて、無事に帰れないってのを伝えようとしたから、あんなメールを最期に……」
 晶の瞳が滲む。
「バカよ、本当に。そんなメール打つくらいなら、私の事を心配して謝るくらいなら、自分の事考えればいいのに。何よ、いつも一人で出掛けてフラフラしていてさ、そりゃ私の付き合いが悪かったかもしれないけど、そうして遊んで……実は気にかけていましたなんて、そんな事、やだなぁ」
 佳和が最期に伝えたかったのは助けでも、生への未練でも、恨み言でもなく、晶への約束を守れなかった事への無念と申し訳無さ。それがなおさら晶には辛く、こぼれ落ちる涙を止められず、また冷たいクッションに顔を埋めた。今度は彼を抱くように、優しく。
「ワガママでいてよ、あんな時くらいさぁ。こうして泣いてる私、バカみたいじゃない」
 晶は泣いた。全てを悟った上で泣いた。淡い色のカティーサークも、薄ぼんやりと輝く三日月も、どうでもよかった。今はただ、あの想いが送信されないまま、唯一残ってあった携帯を思い出しては泣き濡れるばかり。晶には今、何もいらなかった。ただ、一人泣く時間と、それを潤す少しばかりのカティーサークのソーダ割りさえあれば充分だった。
 闇の中、晶は一言呟いた。けれどそれは、クッションに吸い込まれて消えた。

 レースカーテンから漏れる陽光を浴びながら、晶は低い呻き声をあげて寝返りを打った。カティーサークは半分ほど減っており、いつも飲む量の倍は消費されている。そのためやや二日酔い気味だったが、もう寝られないのか、晶はむくりと起き上がった。
 赤く腫れぼったい眼は昨日の涙の名残、鏡で自分の顔を一瞥した晶は自嘲気味な笑みを一つ浮かべると、冷蔵庫へ行き、冷えたミネラルウォーターをコップ一杯分飲んだ。乾いていた喉、まだ気だるかった体がそれによって目覚めると、ふうっと大きく一息。
「メール、返さなきゃ」
 晶は枕元に置いてあった携帯を手に取ると、メールを打ち始めた。いつもより少しばかりゆっくりと、一字一句間違えないように丁寧に。それは短い文面だったのですぐ終わったけど、晶は送信ボタンを押さず、じっとその画面に目を落としていた。

『宛先:宇佐美 佳和
 Re:
 >約束守れなくて、ごめん
 
 いいよ、気にしないで』

 晶はそのまま携帯を折りたたむと、操作中のまま電源を切った。軽やかな音が流れたが、すぐに朝日に溶けていった。
「届くよね、きっと」
 寂しげな、けれどどこか決意を込めた微笑を浮かべると、晶はそれをそっと机の引き出しの奥へしまった。パタリと閉まる音が思い出に溶け込むと、晶は机に手をついてうなだれ、目を閉じた。けれどそれも数秒の事で、すぐに顔を上げて深呼吸すると、晶はベッドに腰かけ、窓の外へと目をやる。
 これだけがきっと、私ができる唯一の供養。もしかしたら、今でも佳和は心配しているかもしれないから、こうしておけばきっと、安心できるに違いない。そう晶は朝日のきらめきを見ながら、小さな微笑み一つ。そして立ち上がると、カティーサークを冷蔵庫の方へ持って行った。
 新しい携帯を買いに行こう、真っ白なメモリーの携帯を。それは佳和を捨てるって意味じゃなく、むしろ大事にしたいから。彼との思い出全てはあの携帯に、そして新しいのには新しい生活を。ただ、今もう少しだけは恋なんてしない。そんな決意を込め、晶はまっすぐ前を見た。
「いつまでも泣いていたら、心配ばかりかけちゃうもんね。心配させないよ、大丈夫」
 今日はきっといい日になる、そんな予感が晶にはあった。空はいつの日も、同じ高さで彼女を眺めているのだから。