穢れ無き約束

狂人の結晶に戻る

 まだ賑わう夜の街を一人で歩いていると、周囲にどれほどの人がいても強い孤独を感じる。酔って上機嫌になっている男、ネオンに負けじと着飾る女、寄り添うカップル、疲れた姿を作り笑顔で誤魔化す客引きなどの間をすり抜けても、世界で生きている人間が自分一人なのではないかと錯覚してしまう。
 一人、そうこんな夜には強く意識してたまらない。
 孤独は嫌だ、一人で眠る夜はいつも切ない。どんなに暑い夜でも同じで、見えない寂しさばかり抱いては凍えた心を撫でる。慣れない。弱い心がそう思わせ、強い心を手に入れられるのならば孤独も感じなくなると思っていたのだが、どうやらそんな事は無いらしく、我慢していても時折人恋しさが爆発する。
 そんなときは寂しさを紛らわす恋をしたり、ちょっとした温もりを求めるためのセックスを繰り返してきたが、満たされない。何だか虚しいばかりだ。女に受ける仕草や格好をし、当たり障りの無い言動をしていればそれなりに出会いはあるけれど、何重にも自分を隠していて、見せる顔があまりにも心とかけ離れているために、寂しさを拭いきれない。
 今日も合コンに誘われて外出したのだが、どうにも気に入った女がおらず、かつ場も盛り上がらなかったので早々に解散したため、こうしてまだ賑わう街中を一人歩いている。友人と一緒に今日は飲み明かすつもりだったのだが、あいつはちゃっかりいい子を見付けたらしく、どこかへ行ってしまった。
 それは別にいい、あいつの自由だ。けれど何故だろう、こうして歩いていると寂しさと共に怒りすら込み上がる。だがそれはあまりにもお門違いなので、小さく地面を蹴りながら苛立たしさを周囲に見せつけ、帰路へとつく。殊更大きく吐き出した白い吐息の行方も一瞥せず、割かし大股で。
 煌びやかなネオンが途切れ、いつしか街灯と各家庭の窓からこぼれる明かりだけが夜を彩り始めた頃、俺はポケットに手を入れてアパートの鍵を確認する。四階建てのそれなりに新しいアパートで待っているのは、自分の匂いだけ。それを考えると思わず出てきた溜息をドアの前に捨て、そっと中へ入る。
 おかえりと出迎える声も、ただいまと返す声も無く、淡々と電気を点けて冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、小さな座椅子に腰を下ろす。タバコに火を点け、ゆっくりと中空に向かって吐き出すと、ぼんやりとその紫煙の行方を眺める。
 何でこうなったんだろう、何が悪かったのだろう。大学生になり、バイトをしながら一人暮らしをし、サークルなんかで適度に人脈を広げれば可愛い彼女と同棲なんて生活が実現できると思っていたのに実際はどうだ、満たされない日々を昨日も今日も変わらず、何も変わらず繰り返すだけ。あんなにも憧れていた恋愛だって、結局打算と駆け引き、金にまみれていていつもどこかで失望してしまう。これが大人の愛なのか、たまにそう自問しては煩悶してしまう。
 今更こんな事を考えるのはバカバカしいし、どうせ笑われるだろうから友人にも言わないけど、子供の頃に抱いていた恋心に憧れて止まなくなる時がある。あの頃、他愛も無いちょっかいをかけたり、いじわるをしたりして丸裸同然の恋心を隠していた頃にはそんなもの存在していなかった。無知故の純真さが、より一層恋の輝きを増していた。嬉しいはそのままの意味だった、好きもそのままの意味だった。けれど今はそうした言葉の裏に幾つもの意味があり、素直に伝えもできなければ、受け止めもできない。
 そう考えれば俺にとって最初で最後の純粋な恋は、小学生の時かもしれない。あれは確か小学校四年生、十歳の時だ。同じ団地にいた子の中で特に仲の良かったミヤコ姉ちゃんに、俺は恋をしていた。彼女は俺より一つ上で、何かと面倒を見てくれた。一つ上だからとよく年上というのを振りかざしていたが、その実泣き虫で、ちょっと意地悪すればよく泣いていた。けれど彼女の涙は自分の利益のためでなく、力の無さを悔いて流す涙だったから、次第に俺も泣かせるよりは笑わせたいと思うようになり、特に親しくなっていったのだろう。
 ミヤコ姉ちゃんの方も少なからず俺に好意を寄せてくれていた。誕生日パーティーで呼んでくれた時には後でもう一度、二人だけで祝ったりもしたし、二人きりでよく下校もした。あの頃は女の子と遊んでいると男女両方から色んな噂が立てられたり、からかわれたりしたものだから、一緒に何かをすると言うのはある種のスリルを伴っており、だからこそより鮮明に物事を感じられた。
 肉体関係はもちろん、キスだって恥ずかしくてできず、誰もいないところで手を繋ぐのが精一杯だった。それでも互いに顔を真っ赤にして、照れ笑いを浮かべながら頬をいじり合い、共に瞳の中の自分を見ていた。あぁ、あれこそいつしか俺が忘れていた純愛かもしれない。
 それも我が家の都合による引越しで、幕を閉じる事となった。当然俺もミヤコ姉ちゃんも泣き合い、いつまでも忘れないでねと言い合ってたが、言葉だけではいずれこの想いが薄れ、消えてしまうかもしれないと子供ながらにわかっていた。けれど別れの時に記念の品を交換し合っても、何だか満足できない気がした。背伸びしていたのかもしれない、子供同士が贈り合うものなんてたかが知れていると考えていたし、大切なプラモデルや漫画、ビーズアクセサリではこの想いの代わりになんてならないと思えたんだ。
 考えた挙句、俺達は今の想いそのままを手紙に書き、それをタイムカプセルの中へ入れた。どんな物より素直で、書き残す事によりいつまでも色褪せないと信じ、二十歳になったら開けよう、いつかここに来て開けようと約束したんだ。
 そうだ、もうその年じゃないか。約束の日がいつだったかは思い出せないが、確か俺が二十歳になったら開けようと約束したはずだ。タイムカプセル、それを開ければすっかり忘れてしまった恋や愛を思い出せるかもしれない。そんな事を考えてすがる俺も俺だけど、現状から逃げる恋ばかりを繰り返していても虚しいだけで、一向に本質が見えてこない。
 行ってみようか、あの場所に。あそこにはきっと、穢れを知らなかった頃の純粋な想いが眠っているはずだ。

 翌日、思い立ったが吉日とばかりに俺は電車に乗っていた。当時住んでいた所までは半日も電車で揺られていれば着く。普段にしてみれば長い乗車時間も、着いてしまえば十年の歳月の前にはあっけ無い旅路だと思え、思い出とは違っていても懐かしい匂いのする町並みの中、俺はゆっくりとあの恋が眠る地へと向かう。
 着いた場所はあの頃通っていた小学校。ここならば変わらないだろうと思っていたのだが、月日の流れは絶えず周囲を変化させるもので、校庭の遊具や花壇なんかは配置が換わっていた。けれど敷地に変化は無く、埋めたであろう西側の隅を借りたスコップで掘り起こす。最近は物騒な事件も多いため、学校の方に許可を取り、立会いの下であの日の想いのため、今の自分を救うため土をかき分ける。
「これか?」
 幾らか掘り進めたところで、ビニール袋に包まれたプラスチックの小箱を見付けた。土と水垢で汚れたビニールから取り出したそれは、十年前に流行ったキャラクターが描かれている赤い小箱。当時ミヤコ姉ちゃんのお気に入りだったもので、これを見た途端、俺は一瞬当時の自分に引き戻されたかのような感覚を抱いた。甘酸っぱくなんかはなかったが、あの頃の匂い、太陽や雨の感触、そして目線などがフラッシュバックする中、そのどれにも日に焼けてほんのり小麦色となって笑っているミヤコ姉ちゃんの姿があった。肩よりやや伸びた髪をゴムで一つ縛りにし、男勝りとまでは行かずとも活発で、でも二人きりになるとよく泣いていたミヤコ姉ちゃんが今でも隣にいて、俺を呼んでいる。
『ユウ君、早くしなよ』
 そんな懐かしさにしばし思いを馳せていたが、遠くから聞こえてきた車のクラクションで我に返ると、密かに周囲を確認した。十年前ではなく、今だ。いや、こんな考えをしてしまう事自体おかしいのだろうが、これがこの箱に込められていたあの時の想いの力なのかもしれない。
 ただ、俺は開けるためだけにここへ来たわけじゃない。その中のものを確かめ、それにより変わるだろう自分を求めに来たんだ。解き放たれた思い出に圧倒されかかる心を取り戻し、俺はまず自分が書いた方の手紙を手に取り、開いた。

『何年たっても、お姉ちゃんがいちばん好きだよ』

 汚い字の短い文句、けれどそれはこれまで体験してきた色恋沙汰の中で最も素直な心模様の表現。それだけに力強く、今更ながら愛するとは何かと考えさせられる。
 愛するとは年月を越えて想う心。相手がどうなろうとも想い続けられ、見返りを求めず、無理なく笑える状況を作り出せるものがそうなのだろう。そんな考え、ここに来るまですっかり思い浮かばなかった。ただひたすら衝動のまま近寄って求め合うが、それがふとした瞬間途切れた時、つい相手を許せなくなってしまい、裏切られたと思い込んで自分を慰めてきた。愛と言う言葉をカードにして、余計な口を封じていたのかもしれない。
 ではミヤコ姉ちゃんは一体何を書き残していたのだろうか。本当ならこういうのは同時に掘り起こし、互いの許可があって見るものなのだろうが……掘り起こす?
 ふとある疑惑が胸をよぎる。
 そうだ、このタイムカプセルは掘り起こさないと中が見れないのに、掘り起こされた形跡がどこにも無い。周辺の土はおろか、箱も触られた形跡が無く、どうやらミヤコ姉ちゃんはまだここに来ていないらしい。
 あぁ、まったく何が愛だ。やはり幼い日の想いは歳月に呑み込まれ、忘れてしまうものなのか。もう俺が二十歳になって結構経つのにこうだなんて、忘れていた俺も俺だが、ミヤコ姉ちゃんも同じく酷いもんだ。
 けれどすぐに立ち去る気にはなれず、一応ミヤコ姉ちゃんがあの時書いた手紙を見てみる事にした。好きだとか、ずっといたいだとかよく口で言っていたが、あれは本心だったのだろうか。いや、小学生にそこまで求めてはいけないのだろうが、けれどあの時の想いは互いに本当であったと信じたい。俺は高ぶる気持ちを抑え、ゆっくりとそれを開く。

『ユウ君、ずっと好きだよ、大人になっても好きでいたい。だからユウ君が二十才になったら、Y駅前で待っているから。ユウ君、これ見たら来てね』

 二十歳になって、もう結構経っている。ましてこれは十年前の約束だ、忘れられていても不思議じゃない。俺は自分が何を書いたのかすら忘れていたんだ、ミヤコ姉ちゃんだってきっと……。
 だけど、もしかしたらと言うほんの僅かな望みにすがってみたい。何時にいるのか、果たして今日いるのかわからないけど、行ってみよう。もしいれば奇跡、いなければ当然。それだけの事だ、それでもうこの胸に渦巻き残っている幻想の答えを知る事ができる。
 二通の手紙を手にし、俺はY駅方面へと向かった。途中、ミヤコ姉ちゃんが住んでいた団地に行ってみたのだが、今ではそれも取り壊されてすっかり当時の面影が無くなっていた。これでは探しようも無いと諦め、Y駅まで子供の頃の記憶を頼りに向かう。大人となった今は子供の頃に遠いと感じたそこも大した距離ではないと思え、こういうところでもあの日と今を感じられる。
 Y駅は近隣地域の中でもそれなりに大きく、そこそこ賑わっている。なので待ち合わせには一見すると不向きなのだが、ここは思い出深いものがある。きっとそこにいるはずだ。そう思い、俺は急く足を更に動かした。
 あれは引っ越す前の事だったろうか、一緒に買い物に行った時、もしはぐれたらこの絵の前にいようと約束した事があった。だからもしミヤコ姉ちゃんがいるなら、そこに違いない。そうでなければ、十年も過ぎた容姿をこの人ごみの中、判別できるわけがない。誰だ、一体誰がミヤコ姉ちゃんなんだ?
 自由を象徴しているのだろう地元の有名画家が描いた絵の前に、立っていたのは三人。年頃はみな同じで、一見してすぐにこれがとわからないので、やや不躾ながら見定める様に眺める。この三人ではないかもしれない、そんな事は百も承知だが、でもこの三人に賭けたい。あの日俺を見詰めた瞳、好きと言ってくれた唇、笑いかけてくれた顔の感じを一つ一つ照合していく。
「あの、すみません。小池美耶子さんですか?」
 思い出と一番近い女の前に立つと、俺は恐る恐るそう尋ねた。彼女は驚いて目を丸くし、またすぐ訝しげに見詰め返す。
「そうですけど、どちら様ですか?」
「……十年越しの約束を果たしに来た者だよ、ミヤコ姉ちゃん」
 言いながら頬が緩み、ともすれば泣きそうになった。ミヤコ姉ちゃんも俺に気付いたらしく、大粒の涙をすぐ両目尻に湛え、泣いているのか笑っているのか驚いているのか、何とも言えない表情をしながら口を手で覆った。
「ユウ君、ユウ君なの?」
「そうだよ、ミヤコ姉ちゃん。あの手紙通りならずっと待たせちゃったね、ごめんよ」
「いいよ、もう」
 それだけ言うとミヤコ姉ちゃんは泣きながら俺の胸に飛び込んで、泣きじゃくった。人目もはばからず泣くのは、これが初めてじゃなかろうか。気付くと俺は自然とミヤコ姉ちゃんの頭を撫でていた。ゆっくり、ゆっくり、あの頃の想いをも撫でさする様大事に。
「ごめんね、いつまで経っても泣き虫で」
「いいよ、俺も約束に大分遅れたんだしさ。でも、本当によかった、こうしてミヤコ姉ちゃんに会えて。待っていてくれているとは思っていなかった」
 ミヤコ姉ちゃんは更に強く俺を抱き締める。
「だからこそ訊きたい、何でこんなにも待っていてくれていたのかと。あの時の想いは確かだったのかもしれないけど、どうしてそれを信じ続けていられたんだ? 正直、俺は忘れていたよ。なぁミヤコ姉ちゃん、教えてくれ。どうして待っていられたんだ。俺じゃなくても良かったろうに、他にもモテたろうに、どうして?」
 ほんの僅かの沈黙が、十年分の重みを感じさせる。俺は偶然思い出しただけだが、ミヤコ姉ちゃんはずっと待っていたんだ。十年ずっと想い続けていたものとは何だ、俺が忘れてしまっていただろうそれは一体何だ。
 すっとミヤコ姉ちゃんの顔が上がった。すっかり赤くなり、やや腫れぼったい瞳になってしまったが、そこには確かな意思が見える。
「自分でも馬鹿だと思う。うん、何度もそう思った。色んな人に出会って、色んな好きを知ったんだけど、でもね、あの時抱いていた気持ちこそが他のどんな好きよりも強いんだってわかったから、待ってみようって。だけど、正直来ないと思ってた。何日も何日も待っては帰り道、何してるんだろうって自分に呆れたり涙ぐんだりもしたけど、こうして会えたらそれまでのがどうでもよくなって、全部消えて……私……」
 こらえきれず、また俺の胸に顔を埋めるミヤコ姉ちゃんを俺は大事そうに抱き締める。優しく、何度も幼子をあやすように撫で続け、そうして同時に己の心をも安心させていく。
 あの時、俺は確かに恋していた。そう、あれは愛なんかじゃなかった。ただ好きで、大好きで、でもそれだけだった。疑う事を、憎む術をあまり知らなかったから、振り返った時に純粋だの純愛だのと思うだけだ。でも、実際そんな綺麗なものではない。幼き日々は常に美しいばかりではないんだ。
 あれは愛じゃなかった。今こうしてミヤコ姉ちゃんを抱き締めていて、はっきりわかる。好きだの大事だのと何遍言おうが、それは愛になんかならない。言葉も行動もどちらも大切だけど、それだと駄目なんだ。
 ミヤコ姉ちゃんの方を掴むなり、俺は意を決して引き剥がした。それに驚いたミヤコ姉ちゃんは俺を見詰めてくるが、すぐに何か言いたげな口を引き締め、俺の言葉をじっと待つ。
「ミヤコ姉ちゃん。俺、こうして会ってようやくわかったよ。もうミヤコ姉ちゃんに恋していないんだって、今会ってみてわかったんだ」
「……そっか。うん、言ってくれてありがとう。そうだよね、何て言うのかな……やっとそれを聞いて自分の中で区切りが付いたよ」
 優しく暖かく、けれど悲しい諦めを湛えてしっかりと言葉を紡ぐミヤコ姉ちゃんはまるで季節外れのカトレアのようで、淡い艶を儚げに滲ませていた。けれど、そんなミヤコ姉ちゃんに向かって俺は大きな、本当に大きな笑みを向ける。
「何言ってるんだ、いつもそうやって早合点するのはミヤコ姉ちゃんの悪い癖だったけど、変わってないんだな」
 ふとミヤコ姉ちゃんの眉根が寄る。
「俺はミヤコ姉ちゃんを愛してる。恋じゃなくて、愛だ。十年かかってようやくわかったよ、人を愛するって何かと」
 雄太よりも更に大きな笑顔となった美耶子の瞳は涙で溺れていたが、しっかりと目の前の愛すべき人をとらえていた。そうしてもう一度、互いのコートの感触から漏れる温もりを今確かめ合った愛のように抱き締める。
 耳を澄ませば、少し早い耳馴染みのクリスマスキャロルが流れているのを知った。