看病のススメ

狂人の結晶に戻る

「九度二分、か。久々に風邪ひいたと思ったら、こんな高熱とはな」
 つい先日まで秋風心地良いと思っていたのも今は昔、すっかり木枯らしが吹く季節となっていた。そうした季節の変わり目に日々溜まっていた疲れも合わさったのだろう、彼は一人布団の中で熱にうなされながら、溜め息をついている。
「まぁ、プロジェクトは一段落しそうだったし、これを機にゆっくり体を休めるのもいいかなと思うけど」
 突如眉根を寄せたかと思うが早いか、彼は猛烈な咳をした。咳が咳を呼び、何度も体がガクガクと揺れている。それが収まる頃には涙目になっており、肩で息をしながら情けなさそうな顔をして目尻を拭っていた。そうして彼は小さな溜め息をつくなり、布団の中で僅かに体を丸める。
 大丈夫だろうか?
 先程から私はふすまの隙間越しに、そっと彼を見ている。いつも一緒にいる彼が辛そうだと、私もやっぱり心苦しい。こう言う時に限って、一体どうしたら良いのかわからなくなる。何だかパニックになってしまい、何をどうすれば良いのかまとまらず、ただオロオロするばかり。
「何だ雪乃、いたのか。こっち来てくれよ。一人で寝ていると、心細くてさ」
 手招きされたので、私はゆっくりと彼の側に近寄り、座った。顔を赤くし、息荒げて苦しそうな彼を私は心配そうに見詰めるだけ。どうすればいいの、私は何をすればいいの。何かしようと思うけど、彼が咳をする度にもう頭の中が真っ白くなり、あたふたするだけで、結局泣き出しそうな眼で彼の顔を覗き込む事しかできない。
「雪乃、そんな顔するなってば」
 ゆっくりと彼の大きな手が私の頭を撫でる。病気で力が入らないからか、私の頭にかかる圧力も少し強くて、でもそんな状態でも沈みがちな私を気遣ってくれているんだと思うと、胸が熱くなると同時に、泣きたくなる。
「おいおい、撫でたら逆効果か。困ったな」
 苦笑する彼に何とか笑顔を向ける。うん、まだ泣いていないから平気。けれどそれは現状維持なだけで、何の解決にもなっていない。何で病気の彼に心配されているのだろう、本来なら私が何とかしなきゃいけない立場なのに、どうしてこんな。
「まぁ、何でもいいけどそんな顔するなよ。俺はお前がこうして側にいてくれるだけで、充分嬉しいんだから。ほら、もうちょっとこっちに来てくれよ」
 言葉通りもう少し近寄った私の手を、彼はそっと握った。熱っぽいけれど、それとはまた違う温かさを感じる。安心させようとしてくれているんだ。本当は心細くてただひたすらに甘えたいだろうに、私がこんなにも頼り無いから……。
 しばらくそのまま、動きは無かった。ただじっと互いに見詰め合い、何かしようとするのだけれど、どちらも何もできずじまい。仄寒い部屋の空気が頬を撫でる度、何故だか悲しくなってくる。
「まったく、お前が何でそんな顔をするんだか。ほら、雪乃」
 突然彼が私を引き寄せたので、バランスを崩した私はそのまま倒れ込んだ。けれど、しっかり受け止めてくれたおかげで別に何とも無い。ただ、期せずして添い寝する形となったので、私は恥ずかしさのあまり焦って逃げようとする。
「おいおい、俺は風邪ひいてるんだから、そんなに暴れるなよ。それとも、やっぱりこんな風邪ひきと一緒にいるのは嫌か?」
 そう言いながら、彼は私の頭をゆっくりと何度も撫でてくれた。そう、別にこれが初めての添い寝なんてわけじゃない。それどころか毎晩こうして一緒に寝ているのに、つい慌ててまたこんな……。
 けれど、もう悲しい顔をするのはやめた。元気な私がそんな顔をしていれば、いつまで経っても彼を困らせるだけなのだから。彼の胸元に顔を埋めた私、見上げれば彼の吐息が顔にかかり、何だか面映い。
「病院行く気力も体力も無いけど、こうしているだけで元気になっていく気がするよ」
 気だるそうに、でも何とか明るい調子でそう言ってくれる彼の目はうつろ。そんな彼の役に立つ事は何一つできない私だけど、何だかこうしているのも、悪くない。こんな時に安息を感じてしまうのはもしかしたら悪い事なのかもしれないけど、それでもこの温もりをもっともっと今は感じていたいの。
 どれくらいそうしていただろうか、不意に今まで私を抱いていてくれていた彼が上半身をようやく起こし、長い息を吐いた。うとうとしていた私もはっと起き上がるなり、何事かと彼の顔をじっと覗き込む。
「そう言えば、まだ今日の新聞、読んでいなかったな」
 新聞を取ってくるくらいなら、私だってすぐにできる。まだフラフラしている彼に取りに行かせるなんてできない。ゆっくりと今は休んでいて欲しい。
 私は犬、掃除も看病もできない犬。できる事と言えばこうして新聞を取りに行ったり、一緒に添い寝をしたりするくらいだ。人間の様になれたらどんなに彼の役に立ち、もっと喜ばせられるだろうかとよく考えてしまう。えぇ、どうにもできないとわかっている。だって私は犬なのだから。それも広く厳しい世界を知らない犬なのだから、尚の事か弱く力の無い存在。
 玄関にあった新聞を咥え、急いで彼に届けると、彼は顔をくしゃくしゃにして私の顔を撫でてくれた。大きな手、優しい手。あぁ、この人が主人で良かった、私は本当に幸せものだ。私も嬉しくなって、また彼に寄り添うと、甘い声を漏らす。
 私は人間になれない。けれど今はそんな事どうでも良かった。この温もりの前ではそんな問題、本当にちっぽけな事なのだから。