読書家の男

狂人の結晶に戻る

 とある読書家の男がいた。彼は本を読むのが唯一にして最大の娯楽であり、暇さえあれば小説を読んでいた。ミステリー、ホラー、サスペンス、SF、恋愛や純文学とジャンルは問わず、面白そうなものを手当たり次第読んでは悦に入っていた。
 彼が小説を読むキッカケとなったのは中学校時代の親友の影響が強く、その友人の家に遊びに行った時、江戸川乱歩を勧められたのが全ての始まりだった。それまで本といえば漫画しか読んでいなかった彼にとってそれは非常な衝撃で、瞬く間にのめり込んでいった。
 それまで彼にとって小説とは何だか高尚なもので、字ばかりのものなど到底楽しめるはずないと思っていたのだが、そんなものは読み出すとすぐに打ち砕かれた。ただの文字のはずなのにまるで目の前にスクリーンがあり、映像を見ているかのような錯覚、そして漫画や映画では知りえなかった人間の内面。もう彼はその友人との繋がりを失ってしまったけど、ふとした時にそれを思い出す。
 そんな彼は大人になった今も、読書に多くの時間を割いていた。いわゆるサラリーマンでなく、自宅で仕事が出来る環境であるのと、またそれがさして忙しくも無く、金銭的贅沢をしなければ生活できる金を生み出していたため、自分の時間をしっかりと確保できていた。彼にとって贅沢とは豪遊ではなく、悠々自適に本を読む事だったから、その点彼にとって好きなアーティストのアルバムを買おうか迷う事があろうとも、本を読めるこの生活がとても満たされているものであった。
 そんな彼にも悩みがあった。それは女性との出会いがほとんど無いというものだった。自宅で仕事をし、人とあまり会わない生活スタイルのため、人間関係によるわずらわしさを滅多に感じないのは嬉しかったのだが、同時にそれは異性との出会いをも失わせていた。
 男は考えていた。自分は人見知りするし、奥手なので誰かと顔をつき合わせての仕事などきっとできないだろうし、また女性と知り合えるような場も知らない。女性の知り合いはもちろん、男性の知り合いもあまりいないため、出会いを誰かに頼む事もままならない。知らない人に声をかけるなんて出来ないし、仮に誘われたとしてもどうしていいのかわからない。何より、嫌われるのが怖かった。
 今はまだ大丈夫、きっと何とかなるさと考えている男も一方で、このまま何もしないといたずらに年を重ねていくばかりで、何の解決にもならないとわかっていた。むしろ、どんどんと厳しい状況に追い込まれていくだろう、とも。年月が経てば次第に友人との繋がりも薄れ、やがては切れてしまう。かと言って、新しい出会いには期待するだけ無駄だろう。
 ならば、何もしない現況よりは何か無駄だとしても、それが生きるかもしれない未来に踏み出そう。現状維持は後退に他ならず、やがて退廃へと向かう。生きる事は不安を取り除き、平穏を求める事。男はある晴れた日、読みかけの本に栞を挟み、静かにそう決心した。
 男が思い立ったのは、どうせ本を読むのならば外で読もうという事だった。家にいても出会いが無いのならば、外に出ろと先人は言った。それはきっと、自分の存在を他者に知らしめすのが第一という事に他ならない。外に出て、決まった場所でいつも本を読んでいれば認知してくれる。そこから出会う確率も僅かながら生まれるに違いない。非常に消極的で、決して効率的とは言えないけど、男にとってそれが精一杯のアピールだった。
 一冊、二冊、三冊と男は読み続けた。朝も昼も夜も、晴れの日も風の日も小雨交じりの日も、男は近所の公園のベンチに腰掛け、読書を続けた。本を買う場所も駅前の割と大きな書店だけと決めた。さすがにひどい悪天候や病を患った時はしなかったし、行きつけの書店が潰れたら場所を変えたりもしたが。
 男はできる限り同じ店に通い、同じ場所で読書を続けた。するとどうだ、それまで家の中にいては感じられなかった人々の声が、太陽の優しさや厳しさが、風の吐息に雨の泣き声など自然が側にいるのを男は実感できた。それは読書を通じて男の糧となり、また読書がそれら声の答えを導き出し、ひいては女性との対応の仕方、受け入れられる仕草や格好などを身に着けていった。
 嬉しくて楽しくて、男は次々と小説を読み漁った。いや、小説のみならず文芸書や学術書など、本という本に手をつけた。そしてそれが着実に自分の糧になるのが、面白くて仕方なかった。いつか来る未来の幸せを夢見て、男は可能な限り、全ての時間を読書に費やした。
 けれど、何十年経っても結局、男は一人の女性とも巡り会えなかった。二十代で危機感を抱いて始めたが、今はすっかり髪も白くなるどころか抜け落ち、手足も力無く、しわだらけ。八十を過ぎた男にとって最早老いらくの恋すらできる元気も情熱も無く、この日課も今日限りで終わりにしようと決め、通い慣れた公園の座り慣れたベンチに最後の腰を下ろした。
 未来のため、出会いのためとしてきたものは結局実を結ばず、未だ一度たりとも女性を愛する機会を男は得られなかった。誰かを愛する事すら、男にはできなかった。けれど、男の心に後悔は無かった。
 やるだけやったんだ、自分なりに。だからこれは本当に、仕方の無い事なんだ。
 続きは家で読もうと男は読みかけの本に栞を挟むと、本を閉じ、天を仰ぎながら重々しい溜息をついた。そうしてこの数十年間を静かに振り返っていると、どこからともなく若い男の声が聞こえてきた。
「そういやここでずっと本読んでいた婆さん、しばらく見ないな」
「言われてみれば、そうだな。まぁ、すごい年みたいだったし、病気で寝ているかもう死んだんじゃないのか」
「そっか、そうだよな。この公園の名物の一人だったのにな。俺が小さい頃からずっと本読んでたみたいだし、何でもうちの親が小さい頃もそうしていたみたいだぜ」
「それ本当なら、すげぇな。でも何か、いなくなると物足りないよな。もう一人の爺さんの方はほら、あぁして元気そうなのによ」
「しかしまた、何で毎日あそこで本読んでいたんだろうな?」
「知るかよ、そんなこと。っと、それより待ち合わせに遅れるから、そろそろ行こうぜ。今日こそいい子と巡り会えればいいな」
 遠ざかる足音に、男はまぶたの裏に涙を溜めていた。もう何の声も聞こえない。男は日が暮れるまでじっとそうしていたが、やがて涙も乾いたのか、重い足取りで家路を辿った。
 何という事だ。ずっと自分はよかれと思って本ばかりに目を向けていたから、そんな人がいるだなんて知らなかった。あぁ、彼女の気持ちはよくわかる、何故ならそれはもう一人の自分に他ならないからだ。彼女もきっと、自分と同じように自ら踏み出す事ができず、誰かを待っていたのだろう。もしかしたらその誰かが、自分だったのかもしれない。
 時間は戻らない。悔やみきれない。今まで読んだ本は膨大だけど、その一部すら使う機会が無かった。いや、使おうとしなかった。いつまでも挑まず、逃げ続けていた。知識は実践しなければ何の役にも立たないと、今ようやく知った。それが最後の答えになるとは、何たる皮肉。あと一歩、たった一歩でも前の踏み出す勇気があれば、本から顔を上げて周囲を見渡せる広さがあれば変われたのに。
 ……それも全て、自分のせいか。
 男はもう二度と公園に行く事は無かった。そして男が最後に挟んだ栞が抜き取られる事もまた、無かった。ホコリかぶった蔵書が静かに開かれるのを待っているけれど、願いが叶えられる事はもう、無い。
 今日もほどよく外は晴れている、外で読書をするにはいい日だ。