団欒の象徴

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 団欒の象徴、なんて言ったら一体何を思い浮かべるだろうか。旅行、キャンプ、ピクニック、外食、コタツでみかん、すき焼きなんて数え上げればきりが無い。もちろん、俺もそれらに関する思い出はある。けれど、一番じゃない。
 俺の団欒の象徴、それはピザだ。
 店で食べるものでも、冷凍食品のものでもない。お持ち帰りや宅配のピザを家で食べている時、俺は強く家族というものを意識する。何故ならピザは家庭で色々な事があっても、常に中心にいたからだ。どんな事があっても、それを囲む事ができたからだ。だからこそ色々な思い出があり、その度に家族の絆という不確かなものを実感し続けられたのかもしれない。
 初めてピザに出会ったのがいつだったのか正確な日時は思い出せないが、六歳か七歳の頃だったと思う。当時の俺は見る物触れる物に新鮮さを多大に感じていたが、何より楽しみだったのはピザだった。当時、それなりに色々なものを食べていたけど、ピザのようにチーズが濃厚かつとろけ、様々な味が混ざり合っているものは普段の食卓には無く、新鮮な驚きを受けた。何より、夢見心地の中での匂いが、一層そうした思い出を強くしているのかもしれない。
 そう、やはり思い出すのは、あの匂いだ。当時、父は定時に帰ってくるなんて滅多に無く、大体残業をしていたからか遅くに帰ってくる事がほとんどだった。夜も八時を過ぎたら眠くなっていた俺は、父の顔を見ないままその日を終えるのもまた珍しくなかったけど、それでも時折目が覚め、居間でビールを飲んでいる父に会うこともあった。
 物音で起きる事もあったが、それより匂いで起きる事が多かったかもしれない。夢見心地の中、居間から漂う香ばしい匂いは睡眠欲を吹き飛ばすには充分で、ある種の期待を抱きながら明かりの点いたそこへ向かったものだ。
 暗い寝室を抜ければ、そこはやや疲れた父とそれをねぎらう母の姿と共に、大きく平べったい箱。なんだ、起こしたかなんて少しばつの悪そうにする父もどこか嬉しそうで、三人で夜、ピザを食べたものだ。
 母が作ってくれる料理は美味しく、食事に不満があったわけではないが、ピザは特別な食べ物だった。こってりとした味わい、暖かくて妙な感じのするパイン、とろけるというものが何だか面白かったチーズ、酸味あるトマト。俺には妹がいるけれど、当時妹はまだ小さく、その時間に起きる事は無かったので、秘密の食事をしているといった背徳感と優越感がまた一層、美味しさを引き立てていたのかもしれない。
 父は憧れだった。ピザを買ってきてくれる事もそうだったが、他にも色々な食べ物を教えてくれた。スポーツやレジャーなんかにも積極的に関わってくれた。たくさんの遊びを教えてくれたし、道を示してくれたし、何より力強かった。そんな父に一歩でも近付きたかった。
 妹が少し大きくなり、ピザというものを知ってからは奪い合いだった。父が買ってくるピザはLサイズ一枚。母はそんなに食べなかったけど、四人で一枚、それも育ち盛りの子供が二人もいたから、時に物足りなさもあった。薄い生地だったから、なおさらそう感じたのかもしれない。
 父が少し食べるのを控えた時、ここぞとばかりに俺と妹は食べた。そうして互いに食べ過ぎ、苦しくなって唸っているのを母に怒られるなんてのも、またピザの思い出。
 たくましい父、優しい母、ケンカするけど仲の良い妹。四人揃って何かする事なんてたくさんあったけど、夜中にピザを囲んでいる時が一番幸せだった。その時こそ、最も家族の団欒というものを感じられた。
 幸せだったのかもしれない、その時が、一番。
 小学校も卒業しようかという頃から、父はよく病気で伏せるようになり、時に入院すらするようにもなった。そのため仕事も休職しがちで、収入も減ってきていたのが子供ながらにもわかった。だからだろう、この頃から母もパートに行くのが日課となった。
 レジャーに行く事も、外食をする事も減っていった。友人が夏休みや冬休みなどの長期休暇で旅行に行った、レジャースポットへ行ったなんて報告を聞く度に羨ましく思ったが、よそはよそ、うちはうちと改めて心に刻み、なるべく心動かされないようにした。そして、家の事も自分と妹とでできる事はなるべくやるようにした。
 仲良く手を取り合う、協力し合う。それは素晴らしく、かつ目指すべき人間の姿。だけど、この頃から家族の絆というものにほころびが見え始めていた。目指すべき姿がとても滑稽で、ありえない理想と思うようになってきていたんだ。
 思春期にもなれば両親と何かを共にするのがダサいとか、格好悪いと思え始め、友達と過ごす時間を以前よりも大切にするようになっていった。また青臭い恋もし、何でも親に話したりもしなくなっていった。両親はどこか寂しそうでもあったが、次第にこれも成長した家族の姿だと思ったのか、どこか納得したみたいだった。
 また、両親の方も母は日々のパート勤めで疲れて帰ってくるから口数も減り、父も入退院の繰り返しで仕事を辞める事となり、塞ぎ込みがちになっていった。たくましかった体も徐々に衰え、背が丸まっていく姿には俺も寂しさを覚えたものだが、こればかりはどうにもできるものじゃなかった。
 そんな父を少しでも元気付けようとたまに話しかけたりもしたが、働けない父という立場にプライドがずたずたにされているからか、はたまた何も出来ない閉塞感によるストレスからか、それとも憧れや父親というフィルターを抜きにしてみれば案外ワガママな性格のせいか、最終的に言い争いになってその場を終える事がほとんどだった。
 そんな家庭環境に移りつつあったからなのか、食事も家族バラバラでする事が多くなっていった。自らそうした流れを作り出す一助となっていたとはいえ、それはやっぱり寂しかったけれど、だからといってみんなで顔を合わせるのも面倒で気恥ずかしかったし、何より口を開けば不平不満しか言わなくなった父と一緒に食べるなんて真っ平だった。それは母も妹も、同じだったらしい。
 けれど、それでもピザを注文する日だけは家族みんなで居間に集まり、チラシを見ながらあれがいい、これがいいと互いに好きなものを選び、LサイズとMサイズのピザを同じ時、同じテーブルで食べた。普段、どこか寒々とした雰囲気があった家庭もこの時ばかりは俺も妹も、父も母もみんな笑っていられた。食べ終わってからも、何だか幸せな気分でいられた。
 外食ではこんな思い、味わえなかった。たまに一家揃って食べに行く事はあったけど、そうそう会話なんて無かった。移動から食事が来るまでの間、また食事中も一切口を開かないなんて、それが当たり前だった。極端にいがみ合っているからではない、単に話題が無かったからだ。口を開けば、父の病気の話題しかなかったから……。
 高校に俺が進学して少しした頃から、父は一年のほとんどを入退院に費やし、父からの収入は完全に途絶えた。母もがんばって働いていたけれど、パートの収入だけでは生活していくのも困難になり、母方の事業をして成功している人から幾らかの援助を受けるようになっていった。それは借金ではなかったから将来への負担は無かったけれど、やっぱり負い目みたいなものは一家にあり、俺も部活なんかやらずにバイトをし、幾らか家に金を入れるようになった。
 多少、昔より貧しくなったけど、不幸ってほどではなかった。そして、テレビや何かで取り沙汰されるほど、貧乏ってわけでもなかった。確かに外食やピザを注文する頻度は減ったし、父が苦しんだり入院する度に他の家庭では絶望するような症状を言われる事もあったりしたけど、全て慣れた。そう、本当に慣れた。何とも思わなくなっていた。
 いちいち悲しんだり、驚いたりなんてしていられなくなっていったんだ。そうして強くならなきゃ、とっくに気が狂ってしまっていたに違いない。テレビ番組でたまに放送される病気の人をリポートした番組より、なおうちの父は悪くなっていったのだから。
 父は胃ガンのため、胃を全て切除した。全て取らないと、死ぬところだったらしい。そのため、もうほとんど食事をする事が出来ず、栄養と言えば点滴ばかりになって、食卓に顔を出す機会も激減した。食べたくとも食べられないのにその場に行くのは苦痛以外の何物でもなかったろうし、俺達もなるべく父の前では食に関する話題を避けた。
 自ずと父は孤立していった。元々家で何かする趣味を持っていなかったし、また外でやる趣味としてゴルフなんかがあったけれど、もう体もすっかり弱っていたため、それすらもままならず、もっぱら居間でテレビばかり観る生活になっていた。
 タバコ臭く、どこか陰気な居間。そんな場所に好んで家族は近付いたりしなかったが、やはり家族だからだろう、ふとした瞬間に父がひどく可哀想に思え、たまに話しかけに行った。話題は何でもよかった。今後のプロ野球について、社会問題について、最近起こった身の回りの出来事についてなど、話にできるものは何でも使った。
 けれど、父の口から出るのは結局、不平不満ばかり、それも非常に子供っぽいワガママな理屈。どんな話をしていても、結局そこに収束してしまい、話しかけなければよかったと退室してしまう。前よりひどく、そう思う。病気で押し潰されてしまいそうだから、きっと心に余裕が無いんだ、どこかにぶつかっていないと気が変になってしまうんだろうと理解できるのだが……どうしても我慢できなかったんだ。無理だった。温厚に、温厚にと思っていても、つい噛み付いてしまうのはもう、父の意見にとてもじゃないが賛同できなかったから。自分の正義とかけ離れていたから。
 呆れるなんて生易しい感情に収まるものではなく、俺は次第に父を本気で憎むようになっていった。父も父で、成長して一人前へと近付く俺に焦りと嫉妬があったからか、疎ましく思うようになっていたらしい。言い争いの最中、そんな事を匂わされたからだ。だから心はもう、どうしようもないほどに断絶していった。
 高校を卒業した俺は就職の道を選んだ。本当は友達の大勢がそうしたように大学進学し、キャンパスライフを謳歌といきたかったのだが、やはり家庭の事情というものが大きかった。母はバイトをしながらでも大学に行ったらどうだ、なんて言ってくれたけど、正直バイトだけじゃ学費なんて払えない。それに、これ以上母に苦労をかけたくなかったんだ。
 妹もそんな俺と同じく、高校卒業後は趣味であり夢でもあった演劇の夢を捨て、普通に就職する道を選んだ。もっとも、妹は高校卒業後すぐ彼氏のところで同棲を始めたので、それはそれで幸せな道だったのかもしれないけど。
 ともかく、家族はそれぞれの道を歩み始めていた。父は一人居間にこもって孤独に過ごしては入退院を繰り返し、母はそんな父を看病しつつパートであくせく働き、俺と妹はほぼ完全に自分の生活を造りながらも、僅かながら実家に金を入れる、そんな状況になっていた。だからもう、家族四人で顔を合わせる機会なんて激減していたし、ましてや共に何かをするだなんて事も皆無となっていった。
 でも、たまにみんな揃って話す事があると、その微妙な家族の絆というバランスを崩したくなくて、当たり障りのない会話で笑い合った。そして、誰からともなくピザでも食べようかと言い出し、注文したものだ。やっぱり幾つになってもチラシを見ながらあれこれと決めたり、電話をかけてから届くまでドキドキしたり、そして届いてから箱を開ける時の期待感などは子供の時とほとんど変わらない。あの美しい時のままの、家族の団欒。
 いざそれを手にすればとろりとしたチーズ、様々なトッピングに見た目を裏切らない香り。そしてそれを口にした途端、それまで胸にこびりつき離れなかったわだかまりがすっかり失われ、どこか遠い国の物語のようにすら思え、家族の絆というものが同時にはっきりと浮かび、感じられた。
 幸せな家庭、団欒の象徴。それが、ピザ。食べる度にそんな思い出が浮かんでくる。もっとも、そうしたものもかなり美化されているだろうから、冷静に思い返せば苦笑ものだろうけど、それでも強く家族を意識できたイベントなんだ。美味しくて、嬉しくて、でもどこか切ない思い出。暖かい食事は心をも豊かにしてくれる、なんてのをはっきりと実感させてくれたんだ。
 今、もう家族が一つになる事は無い。父は他界し、妹は嫁ぎ、俺も母を残して別の町へ。たまに三人で揃い、ピザを食べる事があっても、以前のようなぬくもりを感じられない。俺は父が嫌いだった、早く死んで欲しいとすら願っていたのに、いざこうなると何だか味気ないもんだ。まるで冷めたピザ。
 一家でのピザはもう遠い彼方に去った、淡い思い出なんだ。

 妻と二人きりでピザを食べている最中、こんな話をふとしてみたら、意味深に微笑まれた。別にこっちとしては悲しい話でも、切ない話でもなく、単に我が家ではこうだったんだよと言いたかったつもりなのだが、何だかモナリザみたいに悟った微笑を返されると、こっちもどういう顔をしていいのか困ってしまった。そんな俺を見て、妻はくすりと笑って一言、
「私達に子供ができたら、そんな切なさを思い出すものではなくて、いつまでも明るい象徴でありたいよね」
 だってさ。もっともだよ。