コーヒー・サイン

狂人の結晶に戻る

 コーヒー。一言そう言っても、そこには実に様々な世界がある。例えば豆。モカやキリマンジャロ、ブルーマウンテン、マンデリンなど咄嗟に思いついただけでも色々な種類がある。専門店のショーウィンドゥを思い浮かべるとわかるだろうが、聞いた事もないような豆がずらりと並んである。
 また、例えば飲み方。ブレンド、カプチーノ、カフェラテ、ウィンナーコーヒーなどとこれまた数多くの種類がある。人によって好みも変わるだろうが、俺なんかは喫茶店だとよくカフェラテのアイスを注文する。あの柔らかい甘味が好きなのだ。
 そしてコーヒーには歴史が詰まっている。と言っても、過去何百年前の話をするつもりはない。一人一人、コーヒーにまつわる思い出話の一つや二つあるだろうと言いたいんだ。受験勉強の励みになった一杯、初めて飲んだ時の一杯、ドリップに失敗した一杯、フラれて喫茶店で自分を慰めるように飲んだ一杯。そんな思い出、誰にでもあるだろう。当然、俺にもある。それを今回、少し話したいんだ。まぁ、そんなわけだから何も改まらず、楽にコーヒーでも飲みながら聞いて欲しい。
 人によって、大なり小なり美味しさのこだわりがあるだろう。豆や淹れ方、雰囲気なども関わってくるかもしれない。ただ、俺にとって最も美味しいコーヒーとは、彼女が淹れてくれるインスタントのホットコーヒーだ。何をのろけているんだと言われてもしょうがないけど、本当にそうなのだから仕方ない。それもただ味が良いからってわけじゃない。俺と彼女との間に、コーヒーと言うものは大きな役割があったのだから、なおさらそう思うのだろう。
 彼女とコーヒーにまつわる話をする前に、まずそのなれそめを話しておこうか。彼女と出会ったのは一ヶ月前、たまたま行った飲み屋でだ。安居酒屋のカウンターで隣に座っていた彼女は自分好みの容姿で、それだけでどうにかしたいと思っていたのだが、人見知りする俺にはチラチラと眺めるだけで精一杯だったんだ、最初は。
 最初はと言ったのは、次第にお互い酒が入って気が大きくなった反面、寂しくなったのか、いつしか二人は話し、これまた自然な流れで携帯の番号を交換していた。彼女がその時どう思ってくれていたのかわからないが、俺からすればとんでもないチャンスをもらったような気がしたんだ。
 だから帰るとさっそく電話した。その時のノリや気まぐれで終わらせたくなかったし、また本当にもう一度冷静な時に話してみたかったので、会う約束を取り付けた。ただもう、その時は青臭いガキのように緊張してしまった。携帯を握る手が震え、胸も張り裂けそうに暴れ、話している最中も頭が真っ白になり、約束を取り交わすのにしどろもどろだった。
 だが彼女は笑って受け入れてくれ、そしてちゃんと約束通り来てくれた。その時、どんなに心中喜んだことか。なるべく落ち着いた素振りで応対していたが、本当は人前なのに喜色満面で飛び跳ね、大声で叫びたかった。やったぞ、ありがとうってね。
 そして三度目のデートで告白。普段は臆病な俺がどうしてそんなにも早くそうしたのかと言えば、時間が無かったから。そう、二人の間にはもう幾らも時間が無かった。だから俺は悔いを残したくなくて、精一杯の勇気を酔いの勢いも味方に付けて告白した。一語一句、あます事無く伝えたかったんだ。素直な気持ち、幾らか茶化しながらもはっきりと伝えてみると、彼女は目に涙を浮かべつつも頷いてくれた。
 俺にはわかっていた、その涙の意味を。単に嬉しいだけじゃなく、また一時の遊びを了承したものでもない、切なさがあったという事を。そしてその涙を見た時、これでその姿を見るのは最後にさせるという決意が湧き上がった。
 その夜、俺は彼女の部屋に行き、体を重ねた。そんな展開に躊躇するほど子供でもなかったし、悟って訳知り顔でいられるほど老いてもいなかったから、求めた。内なる衝動に求められるがまま、また言葉で伝えきれない想いを互いに補い合いたかったのかもしれない。嬉しいを補い合うのではなく、タイムリミットが迫っている別れが見える寂しさを紛らわすよう。
 愛しかった、何もかもが。不格好だったかもしれないけど、互いに裸で笑い合えた一瞬が永遠に思えた。
 翌朝、寝惚け眼の俺に彼女が濃い目のインスタントコーヒーを淹れてくれた。それはとても苦く、酒を飲んだ翌日目覚めの一杯にしては少々きつかったけれど、不思議と今まで飲んだどのコーヒーよりも美味しかった。それが彼女との初コーヒー。
 以降、彼女の家に行く事が増えた。彼女の家に上がると、まずインスタントコーヒーを一杯もらう。それを飲んでいる間は他愛もない話を続けているのだが、小さなコーヒーカップを空にする頃、いつしか沈黙が訪れている。そして互いに空だとわかるとそれが合図とばかりに彼女が寄りかかってきて、どちらからともなく唇を合わせ、肌を重ねる。そして愛を思う存分ぶつけ合った後、シャワーを浴びてからまたコーヒーを一杯もらう。先程の行為を照れながら話し合い、初々しく笑みを浮かべ、その一杯を飲み終えたら笑顔が静かなものへと変わる。そして軽いキスをして帰る。それが暗黙の了解といつしかなっていたんだ。
 日に日に好きになっていく。今まで一人で生きていっても平気だと強がりじゃなくそう思っていたはずなのに、それが耐えられなくなってきた。どうしようもなく、朝も昼も夜も求めている。心も体も、張り裂けそうになりながら。
 そんなある日、とうとう一人の夜に耐え切れず痛飲し、酔いの勢いに任せて彼女に電話して、想いの全てをぶつけた。それこそ普段見せもしない、見せようともしない心の奥底を全部ぶちまけたんだ。
 ただ、その日は本当に飲み過ぎていたため、翌朝になってその会話を思い出そうとしても、ほとんど覚えていなかった。断片的には覚えている、大事な話を何かしたというのは。でもそれが何だったのか、思い出そうとしても記憶にもやがかかったみたいになり、どんなに頭を働かせようとしても無理だった。
 居ても立ってもいられず、その日の昼に彼女の家に行った俺はすぐに聞き出そうとしたのだが、なかなか言い出せず、とりあえずコーヒーをもらい、心を落ち着かせようと努めた。でもやっぱり言い出せず、また彼女も自ら言おうとしないので、重苦しい沈黙が場を支配し始めた。このままだと言えなくなる、そう判断した俺はコーヒーを飲み終えると、昨日電話したけれど酔っ払ってほとんど覚えていない事、それでも何だか大切な事を話した気がするらしい事、それらを包み隠さず話すと、彼女は驚きつつもニヤけた顔で俺を見詰めてきた。
「本当に覚えてないの?」
「あぁ……」
「そんな事言って、本当は覚えてるんじゃないの?」
 全てを知っている彼女の眼、いたずらっぽく笑う口元を見ていると何だか気恥しくなり、俺はついと視線を外し、空になったコーヒーカップに目をやる。
「さぁ、どうだろうね」
「ずるいんだから」
「そうさ。君は告白した夜、俺に散々言っただろう。ずるい男、だってね。俺は昨日の事をあまり覚えていない。信じるかどうかなんて、君次第さ」
「いつもそうなんだから。……あっ、もう一杯飲むよね」
 そう言って彼女は台所へ向かったのだが、俺はその背に小さな安堵の笑みを浮かべていたんだ。
 本当は覚えていた、いや、今日こうして彼女と会ってから思い出したんだ。彼女がもう少しでここからいなくなるのを。自分のせいではなく、彼女の事情でそうなるのを知っていた。だから告白する前からタイムリミットがあるのを知っていたし、そしてそれでも俺は彼女との時間を重ねたいと願い、選択した。だけど忍び寄る別れの事実を今更信じたくなくて、見詰め合い唇を重ねる事で日々不安を紛らわせていたのだが、一人酒でつい不安が爆発し、酔いに任せてこれからどうなるのか訊いてしまったんだ。そんな事、本当はみっともないし、また聞けたとしても今の自分には難しい選択であっただろうから、どうにもできない自分が恥ずかしく思えて仕方なかったんだ。
 言うべき事、本当に伝えたい事が伝えられないまま、時を重ねていたのかもしれない。
 最後の日もいつもと変わらなかった。部屋に行ってコーヒーを飲み、それを飲み終えるとどちらからともなく唇を重ね、体を合わせた。激しく抱き合った。伝えようとしても伝えきれない想い、刻みつけようとしても足りない心。もどかしく、辛く、だけども笑顔で笑い合っていたかった。涙は二人には似合わなかったし、見たくなかったから。
 行為が終わった後、彼女が淹れてくれたインスタントのホットコーヒーを飲んだ。飲みながら、先日の酔っ払った時みたいではなく、しみじみと今後の事について話し合った。遠くへ行っても待つ事、だけども互いにいい人ができたらその幸せを祝福しようなど。別れは悲しみではない。一回り大きくなった愛しい人を見るようになるための、また衝動ではなく本当の愛なのか試す期間。辛いのは事実、それだけだ。
 だから涙は見せないよう、互いに笑い合って手を振り合おうと約束したのだが、耐え切れなくなったのだろう、ついに彼女が涙を流した。ポロポロと、とめどなく。
「ごめん」
 そう呟いた彼女をそっと抱きしめた俺もまた、心では静かに泣いていた。
 翌朝、最後のコーヒーを飲んだ。引っ越しのためにあらかた荷物を片付けたのだが、このコーヒーセットだけは残しておいたんだ。そっとコーヒーカップを差し出す彼女の笑顔に俺も同じように返しつつ、そっとそれを口に運んだ。相変わらず高級感なんてどこにも無いけれど、美味しい。最初にもらったあの苦いコーヒーに比べて、美味しくなっていた。そう、この一ヶ月の間でお互い成長したんだ。
 小さなコーヒーカップなので、飲み終えるのに時間はかからない。名残惜しく、未練たらしく飲むのではなく、いつものように飲むと、これまたいつものように唇を重ね、笑い合った。
「それじゃ」
「うん」
 別れの挨拶はこれだけ、たったこれだけ。それだけ言うと俺は彼女の家を出た。サヨナラは言いたくなかったし、またねと言って別れた相手とは出会えなくなる事をよく知っていたから。
 帰りの車の中、俺は彼女が好きだと言ってくれた音楽をかけ、家路に着いた。

 三ヶ月経った今も、彼女とは連絡を取り合っている。近況報告と、それに混じって今も愛している、好きだのといった言葉を交わしては電話口で笑い合っている。お互い、まだ他にいい人がいないから繋ぎの恋愛ではなく、あの時と変わらないままの愛情をぶつけ合えているのに、俺は満足している。
 ただ、言葉だけではわからなくなっている俺がいる。はっきりとした証が欲しい。俺が今望むもの、それは彼女が淹れたインスタントのコーヒー。もう一度あの安っぽいけれど美味しいコーヒーを飲み干し、無言で見詰め合った後、唇を重ねたい。コーヒー味のするキス、あれをもう一度……。
 その日が訪れるのを今も待っている、ずっと待っている。一回り大きくなった俺を見せるため、そんな君を見るために。