蝶は誘う

狂人の結晶に戻る

 何か起こればいいな、なんていつも考えているくせに、いざ何か起こったらどうしようかと不安にもなる。そんなハプニングを楽しめるほど俺は肝が据わっていないので、結局何だかんだ言いつつも平穏な生活に満足しているのだが、それでうんうんよかったなんて落ち着いて茶を飲めるほど、老いてもいない。
 十九という若さは平穏な日常を時として壊してしまいたくなる、そんな衝動を孕んでいるのだろう。
 地元から少し離れた、世間的には二流、いや二流半くらいの大学に通っている俺は不勉強ながらもテスト前の立ち回りの良さで、単位にはそう困ってもいない二年生。まぁ、その代償として年に数度サイフがひどく痛むけど、背に腹は変えられない。俺だってたまにノートを貸したりもしているし、それで昼食をおごってもらったりもしているので、持ちつ持たれつだ。
 サークルにも一応所属している。自然科学研究会だなんて随分大層な名前が付いており、日々真面目に自然についてあれこれ討論していると思われがちだが、そんな事はない。実態は川原でバーベキューをしたり、温泉旅行に行ったりするだけだ。それすらしない時なんて、部室で漫画を読んだり、気ままにお喋りしているだけで、研究なんて全然していないが、先輩が言うにはそれも自然であるらしい。まぁ、真面目に取り合った事なんて無いけどね。
 入ったキッカケなんてそれこそ下らないもので、サークル説明会の時に先輩と何だか意気投合してしまい、なし崩し的に入会してしまったのだ。
 そんなサークルなので暇な時に顔を出せば充分なくらいで、普段はもっぱらバイトをしている。週四日、近所のレンタルビデオ屋でだ。実家暮らしなので生活に関してはそこまで困っていないけど、大学生ともなれば人付き合いにも金を使うようになる。それに自分でどうにかできるのならばどうにかして、少しでも欲求を解消したい。
 バイト先でも装いは変えず、気取らずいつもの感じで接していたからか、そう距離を置かれることも無く、先輩後輩と付き合えている。そりゃ中には苦手な人もいるけど、おおむね良好だし、やりがいを感じてもいる。満足かといえば、満足だ。
 傍から見ればそれなりに充実しているとも言われるし、自分でもそうかと思う。でも、どうしてだろう、贅沢な悩みなのかもしれないけれど、ふとこの日々に疑問を覚える。それは普段誰かと会ったり、食事をしたり、ぐっすり眠ったりすれば忘れてしまうけれど、不定期にそれが大きく膨らみ、何だか焦燥感すら現れる。それは若さだけのせいなのか?
 今日もそうだ。バイトを終えて気だるさを抱いている中、ふっと夜風が通り過ぎた瞬間、何とも言えない危機感を覚えた。このままでいいのだろうか。そんなどうしようもなく漠然としたものにいちいち不安がっていても仕方ないのだが、悪い癖だ。けど、不安がりながら夜風に吹かれるのは悪くない、いやむしろ好きだ。初夏の夜風はどこか肌にまとわりつこうとしながらも、するりと通り抜けていき、艶かしい。そんな夜風を感じながら想い馳せるのもいいけど、もっといい事がある。俺はそっとビルとビルの隙間にある路地に入り、一方の壁に背をもたらせながら後頭部をも押し付け、天を仰ぐ。
 あぁ、綺麗だ。
 そんなに都会というわけではないが、そんなに田舎というわけでもないこの街は夜、見上げれば星空がそれなりに綺麗に見える。星座の配置やどれがどの星かなんてまるでわからないが、こうして見ているだけで何だか心が洗われる。これが俺のストレス解消法。
 ほんのりと青みがかった黒色の空に輝きながら点在する星々。それをじっと見ていると、そのまま吸い込まれてしまいそうな、何とも奇妙な浮遊感を抱く。まるで星空が俺を抱き上げ、さながらピーターパンのように飛ばせてくれそうな、そんな錯覚すらちょっぴり真剣に考えてしまう。いい年して夢見がちだとはわかっているのだが、そんな子供じみた空想がまだまだ楽しかったりもする。
 一頻りそんな密かな遊びに満足した後、コンビニでジンジャーエールとスモークチーズを買い、家でゆっくりするのがバイトのある一日の終わり。そんな一日をもう百回近く繰り返している。満足といえば満足だが、案外そうでもない。


「お疲れ様でした」
 バイトを終えると、どことなく心地良い溜息が出た。仕事をした達成感と安堵感が身を包む。さて、明日は二講目からなので帰ってから少しのんびりできる。やりかけのゲームでもやろうかな、それとも買ったはいいが読んでいない漫画に手をつけようかな。
 のんびりと家路についている最中、今日も空を見上げてみた。満天とまではいかないが、星が美しい。このままずっと、こうして見ていたい。でも、やはり道端に突っ立っていると変な人に思われかねないので、適当な路地に入り、そこから見上げる事にした。
 風と車の通り過ぎる音がBGMの天体観測。誰にも邪魔されず、空想の世界に浸れる自分だけの時間。それを強く感じるのは、何よりもこの星空のおかげだろう。じっと見詰めていると、まるで星空の彼方へと吸い込まれていきそうな、自分の魂がふうっと浮かんでそのまま星の一つになってしまいそうな……。
 おや、何だろう。
 すっと目の前を何かがよぎった。それは特に速くはなかったけど、突然の事だったので夢から無理矢理覚まされたようにびくりと体を震わせ、ちょっと情けないくらい動揺してしまった。けれど、それを確認すると何だか気が緩み、力無い笑いがこみ上げてきた。
「なんだ、蝶か」
 それは蝶、それもこの辺ではめっきり見る事の少なくなったカラスアゲハだった。黒い体に緑や青がビロード状の模様となっており、月明かり星明りの中でひらひら舞っている姿は何とも言えないくらいに幻想的だ。そしてそれが俺の頭上を飛び、あのやや青みがかった星空をバックにしていると、それはまるで星空からの使者みたいで、本当に俺をあの彼方へと連れて……。

 気付くと、俺はビルの屋上にいた。そこから見える景色はノスタルジックだけど、どこか寂しくも見える。ここは、俺が住んでいるところだろうか。そうだ、間違いない。あのパチンコ屋の看板や、一風変わったおもちゃ屋には見覚えがある。それもどこか新しい気がするけれど、でもここは俺がいる町。
 ゆっくりと前に進む。視界がぼやけて、どこに焦点が合っているのか自分でもよくわからない。ただ、何かに導かれるかのように、ゆっくりとゆっくりと前に進んでいく。心に広がるのは黒いような、白いような虚無感。あの星空とはまた違った、吸い込まれてしまいそうな無限。見てはいけない、そうわかっているんだけど、目を逸らせない。足もどんどんと前に進み、ついには端にある鉄柵にまで辿り着いてしまった。
 もしかして……そう思い、恐怖で足を止めようとするけど、その指令が体に伝わらない。目の前に何か見えたかと思った途端、すっと手を伸ばしたはずみで足が地から離れた。
 手すりを中心に体が半回転し、頭が下になる。その浮遊感を感じた時にはもう遅かった。ぞくりとした、何とも言い難い感覚、取り返しのつかない事をしてしまった後悔、それらが冷たい刃となって心を切り裂きつつ、落ちていく。どこまでも。
 死ぬ。
 強くそう自覚するより先に、ふっと目の前が真っ暗になった。そしてまた、落下とは違う奇妙な、まるでシャボン玉にでもなったかのような感覚。世の中全ての物から自分というものがひどく儚く思え、消えてしまいそう。夢を見ていたのに、夢から覚めた時のようにその世界を、この世界を忘れていってしまう。彼方へと、消える。

 びくりと体が震え、大きく目を開く。いや、もうずっと前から開いていたのかもしれない。目の前が滲むのはドライアイのせいか、それともさっきの恐怖体験のせいか。とにかく、俺はどうやら生きているようだ。あの体験前そうしていたように、路地で星空を見上げているのだから。
 あのカラスアゲハはもうどこにもいなかった。周囲をよく見回してみたけど、どこにもいない。時計を見てみれば、どうやらほんの二、三分の出来事だったようだ。けど、その僅かな時間で何十年分もの体験をしたような気がする。当たり前だ、あんなにもリアルな死の体験なんて、順調に行けば五十年先でも味わう事など無いのだから。
 すっと夜風が吹いて、初めて全身がバケツたっぷりの水をかぶったかのようにぐしょ濡れになっているのに気付いた。胸も早鐘を打ったみたいだし、膝も笑っている。そんな自分を改めて認識するとゆっくりと、そして早足で、少し離れると全力で駆け出していた。
 怖かった、それはもう途轍もなく怖かった。そこから逃げ出す事が死から逃げているかのようで、離れるほどに安心していったが、一方どこかでコールタールのようにねっとりとへばりついていて、帰宅して部屋を明るくし、陽気な音楽を聴きながらギャグ漫画を読んでも、一向に拭えなかった。


 それから数日、バイトの帰り道そこに近付く事は無かったし、天体観測もしなかった。それだけじゃない、ニュースを始めとして色んな媒体から死というものを遠ざけた。それに触れるとあの日の体験が鮮明に思い出され、心中どうしようもないくらいに動揺してしまい、気を抜けば失神してしまいそうだったから。
 あぁ、臆病だと思う、我ながら嫌になる。昔からホラー映画や怪談なんかは割と平気な方だったけど、どうにも気が小さい。幽霊なんてあまり信じちゃいないけど、だからこそもし本当にいたらどうしようとも怯えている。そんな事をじっくり考えるのすら、嫌だ。
 けれど記憶は静かにゆっくりとだが風化するし、同時に好奇心が湧き上がってくる。怖かった、けれどどうして自分はあんな体験をしたのだろうか。あんな事、今まで生きてきて初めてだった。だからこそ、どうしてあぁなったのか知りたくもある。疲れたからこその夢か、それとも星空のせいか、蝶か、場所か、はたまた気のせいか。
 バイトを終えると、俺は一緒に帰ろうと言う同僚の申し出を心苦しくも辞退し、またあの路地に向かった。それは怖かったけれど、好奇心と探究心が後から後からもう溢れて止まらなく、そうしなければならないという衝動に突き動かされ、ほどなくしてあの路地のあの場所に立っていた。そうして俺はどこかひんやりしているビル壁に背もたれ、星空を見上げる。
 昼までは雨が降っていたりしたけど、夕方から晴れたせいで今日も空には数多の星がまたたいている。あぁ、変わらない。星々の配置はおろか、見続けていればそのまま空の彼方へと吸い込まれてしまいそうな感覚も。この前もそうだった。でも、こんな感覚はそれ以前にもあった。あの日とそれまでに違っていた事、それは何だろう。体調か、それとも他の……。
 ふわり。
 目の前を何かがよぎった。もしかしたらと戸惑いに近い、期待感交じりの眼で辺りを見回すと……あぁ、いた、あの蝶だ。あの日見たのときっと同じ、カラスアゲハ。夜に溶け込み、でもしっかりと存在感を醸し出しているそれはそよ風に吹かれ、右へ左へ漂う羽毛のように俺の目の前を飛んでいる。
 確かに綺麗な蝶だ、不思議と心惹かれる何かがある。けれど、この星空には及ばない。路地から眺める星空はビルに切り取られ、どこか窮屈そうだけど、それでも俺を夢幻の舞台へと誘ってくれる。俺は蝶から星空へと目を移し、ぼんやりと見上げる。
 しばらくそうしていると、あの日から抱いていた恐怖心はどこへやら、またいつもの浮遊感が体を包み、魂が空の彼方へと飛んでいくかのようだ。
 すっと意識が星空に集中していく間、あの蝶が俺の視界の端でゆらゆらと飛んでいた。まるでそれは催眠術師が使う振り子のように、俺をより遠くへと誘っていく。背に伝わるビルの冷たさも、夜風も、表通りや遠くから聞こえてくる喧騒なんかもゆっくりと星空の中へ溶けていき、すうっと体が軽くなる。

 夢から覚めたような、いや夢を見始めた時のような、世界が突如切り替わり、この世界こそが正しいという認識が強くこの身に刻まれる。また自分でも『今』でもない、でもすごくリアルな今。
 眼前に広がるのは、どこか疲れた町並みを夕陽が彩っている屋上からの景色。そうだ、前もこの景色を見た事があるぞ。でも、前とは違う。足は確かにあの恐ろしい結末に向かって進んでいるけど、行動パターンは変えられないけれど、何だかこの『身の上』がわかる。自然と今が理解できる。
 どうやらここは勤めている会社の屋上。そして自分は今、女。新入社員ではなく、程よく慣れてきた頃で、でもたまに勝手がわからず怒られたりもして、落ち込んだりする。プライベートでは二年間付き合っている彼氏もいるけれど、順風満帆とはいかず、最近はケンカしがち。趣味はビリヤードだけど、なかなか上達しないし一緒に行ってくれる相手もいないので、最近はしていない。
 大小様々、漫然としたストレスが膨らんでいて、漠然とした不安が胸を占めている。それは異様に成長の早いツタのように心に絡まり、縛り、他の考えに及ぶという思考すらもさせず、ずるずると底なし沼のような心の闇へと引きずり込んでいく。
 胸が苦しい。そんな考えが体を蝕み、明らかに活力を奪い、視力を奪い、聴力を奪い、思考力をも奪っては強烈に胸を苛む。眩暈のような不透明さをこの身に浸透させ、でも足はゆっくりと絶え間なく進んでいく。
 眼前に広がる夕映えの景色が徐々に近付き、この身とは違う心に警鐘を鳴らし続けている。それでもこの身は止まらず、停滞した重い心のまま歩みを進め、やがて胸の辺りに金属の冷たい感触を与えられる。そしてその感触を実感として抱いた途端、体が半回転し、足が浮く。
 重力が凶器となる。コマ送りのように、ビデオを見ているかのように客観的に俺は、そのまま落ち……。
 意識が闇の中に吸い込まれ、自分という存在がぎゅっと圧縮される苦しさと恐怖に染まった瞬間、世界が切り替わった。

 荒い呼吸をしていた。汗はびっしょりで、背もたれていたビル壁にも跡が残るほどシャツが濡れている。膝も少し折れており、体から力が抜けかかっているのがわかる。そうした姿勢で、俺は目を剥いて星空を見上げていた。あの体験をする前と同じように、星空は変わらぬ輝きをもって青黒いキャンパスを彩っている。
 混乱した思考の中、優先したのは恐怖ではなく、ある種の確信だった。それは前から心のどこかでずっと抱き続けていたものだったが、今日ようやく明確な形となって掴む事ができた。
 何かある、ここには絶対に何かある。
 ここで以前、女の人が飛び降り自殺をしたに違いない。前にこの体験をした時には単なる妄想、空想の類だと思っていた。こんな路地で夜にぼんやりしていれば、何かしら怖い想像だってしてしまうだろうから、それだとも考えていた。でも、違う。残留思念とでも言うんだったかな、こういうの。強い未練がその場に留まり、生前の体験を生きている人に伝えるってヤツ。あんなのオカルト番組でインチキ臭い人達が作り話や演技でやっているものだとばかり思っていたのだが、まさか自分で体験するとは。
 星空をもう一度見上げてから、辺りを見回した。やっぱりあの蝶はいなかった。でも俺は特に探そうとはせず、そういうものだとその存在を片隅へ追いやり、明日の行き先について考えを巡らせながら、その場を離れる。いつものコンビニへと足を向けながら、今日はスモークチーズではなく唐揚げにでもしようかと。


 翌日、俺は大学の講義をサボって市の図書館で調べ物をしていた。テスト前でもなかったし、四講目には小テストがあったはずだけど後で体調不良でしたとでも言えば何とでもなる教授だったので、少々こうしても平気だ。まぁ、後でノートくらいは仲の良いやつから借りるけどさ。
 あの時、屋上から見た街並みは少なくともつい最近のものではなかった。かと言って、俺が生まれる前ほど古いものでもなかった。これだけでは漠然とし過ぎて探しきれるものではないと踏んだ俺は、昨晩あれからあの辺に住んでいる友人に飛び降り自殺した事件に心当たりはないかと訊いていた。返ってきた答えは三年前か四年前の夏頃、そういう事があったらしかった。
 交通事故と違い、飛び降り自殺なんてこの辺だとそう無いものだし、何よりあの辺りはよく行っていたからショックが大きく、しっかり覚えていたみたいだった。そんな友人の記憶力に感謝しつつ、俺は昼食をとるのも忘れてその時期の新聞を片っ端から調べた。
「これか」
 それは四年前の八月九日の朝刊だった。大臣失言問題の片隅に、その事件は載っていた。それがあの体験の場所と死亡推定時刻に合致しており、一文字一文字と読み進める度に、興奮が体中の血液を沸騰させていくのを実感できた。
 女の名前は大島麻奈、年は二十七。文具メーカーの下請け会社で働いていたが、九日の夕方に会社が入っている雑居ビルの屋上から飛び降り、即死。遺書は無かったが、動機として当時付き合っていた男性とのもつれとも、仕事上でのストレスとも推測されるが、どちらも確証は無いまま。
 それから数日間の新聞にも目を通したが、結局真相は謎のままだった。けれど、この発見は俺にとって大きな一歩だった。半信半疑だったあの体験が、こうして確たる現実の出来事だったのだから。俺はそれに関する部分をコピーし、高ぶる気持ちのまま図書館を後にした。
 帰宅して落ち着いてからまたその記事を読み返してみると、ある疑問がまた入道雲のようにむくむくと湧き上がってきた。それは最初思考だけに留まっていたのだが、やがて肉体をも動かそうとする強烈な衝動となりつつある。そわそわしながら、何度も何度も彼女の記事を俺は見返しつつ、息を荒げていた。
 なるほど、あの体験の主はわかった。その身の上も、その瞬間の心模様もなんとなくだけど理解できた。けれど、どうして俺が彼女のそれを体験したのかがわからない。霊感なんてある方じゃないし、今までそういった体験も無かったのに、何でまた、あんな……。
 それ以上考えるより先に、体が動いていた。俺はすぐさまあの路地へと向かい、何らかの体験を期待していたんだ。既に日は落ち、ネオンの主張する中、上空では星々が活気を溢れさせようかという時刻。ねっとりとしたそよ風が肌にまとわりつき、どこか陰鬱になる夜だけど、同時にこれだからこそ何かあるに違いないとすら浮かれてもいた。
 いつもの路地、いつもの場所。やや急いできたからか鼓動が早まっているけれど、それは疲れだけのものではない。俺は壁に背をもたれさせ、乱れた呼吸を整えながら星空を見上げる。空は今日も変わらず、星々が見るものを魅了するかのように輝いている。人工と自然、悠久と無常、天と地、そんな対比が境界を曖昧にし、俺に浮遊感を与える。そしてそのまま目を閉じ、空想の世界へと心を飛ばすのがこれまでの楽しみの方法。
 けれど、あの体験にはそれだと辿り着けない。それにはあの蝶、カラスアゲハが必要なんだ。今までそうしていて何とも無かったのに、あの蝶が目に付くようになってからそうなったのだから、あれは必要な要因に違いない。星空を見上げながら視界の端で俺はあの蝶を探していた、あの心惑わす蝶を。
 五分ほど経った頃だろうか、どこからともなくあのカラスアゲハがふわりと目の前を横切り、そうして俺をからかうように右へ左へと飛んでいる。ゆっくりと、でも時に素早く、切り取られた星空の中で回るように、溶けるように、ゆらめきながら、するり。

 意識が次の場面をとらえた時、そこはもう夜の路地ではなく夕方の屋上だった。夕映えの街を見ていると、自然とこの身の情報が流れ込んでくる。それも、前よりはっきりと。
 溜息が自然と漏れる。どうやら仕事の合間にここに来たらしく、吸い込む空気が肺に染み渡って心地良い。気分転換の時にはよくここを利用するみたいで、こうして赤い影を落としている街並みを眺めていると、心にもやがかっているものが薄れていくかのよう。
 色々悩み、迷っている。仕事、彼氏、将来、理想と現実。考えても答えの出ないものばかりが頭の中をぐるぐる駆け巡り、どろどろになりながら全身を覆い、固まらせていく。考えるほどに目の前が暗くなり、夕映えの景色もどこか味気なくなっていくけど、それでもこうしていると気が紛れる。
 疲れていても元気でも、自分。できるかできないかじゃなくて、やるしかない。そうして一歩ずつ今を生き、納得していくしかないんだ。いつもそうして結論付けて、もう少したそがてれから戻るんだ。そう、いつもそう。でも今日はもう少しだけ、ここにいたい。
 ぼんやりそうして沈みがちな自分を励ましていると、不意に目の前をひらりと何かがよぎった。木の葉とは違う何かが気になり、目を向ける。ゆらりゆらりとそよ風とたわむれながら舞うそれは、黒い体に緑や青がビロード状の模様となっているカラスアゲハ。夕焼けの中にきらめく黒が異質で、でも自然と惹かれ、加速度的に強い欲求が頭をもたげる。
 手にしたい。
 そう思ったと同時に、足が動いていた。馬鹿げた考えかもしれないけど、あの蝶を一度でも手にできたら、この悩み全てが消えるかもしれない。この鬱屈した毎日をどうにかできるかもしれない。どうにかしたい。
 蝶はゆったりと吹く風に翻弄されながら、先へ進む。自ずとこの足も前へ進む。優雅に舞う長を見ていると心の中に溜め込んでいる闇がどっと溢れ出し、すごく汚く思え、まみれ、次第に思考もぼんやりとしたものになっていくけど、それに反比例して蝶への期待や輝きが増し、世界がその一点へと集まっていく。
 歩いているのか、立ち止まっているのか、それとも別の事をしているのかわからない浮遊感が支配する。もっと早く、もっと的確に、もっともっとと心ばかりが焦り、体がついていかない。蝶は目の前を飛び、何だかからかわれているみたいだ。それが腹立たしくもあり、叱咤されているようでもあり、必死に追い駆ける。青い鳥ならぬ、黒い蝶。まるで催眠術師の振り子みたいに、目の前を揺らめきながら、惑わすように飛んでいる。でもこの身はもうそれを無視できず、求めて止まない。
 手が届く、もう一歩、あと一歩。
 ぐっと体を前に出す。今まで踏み出せなかった一歩、この一歩のために散々我慢し、耐える事になった。踏み出せないまま、こんな毎日にずるずると追い込まれた。でも、もう違う。私は変わる、些細な事だろうけど、これによって変わるんだ。ほら、もう手を伸ばせばこの手に、手に……手……。
 ぐるり。
 腹部への圧迫感が一瞬あったかと思うが早いか、回転。現実的な浮遊感に我に返る。刹那、湧き上がるすさまじいまでの恐怖と絶望。力が抜ける速度が心をこれ以上無いくらいに乱し、同時にどうしてこうなっているのかと疑問符を咲き乱す。そして、それは解決されないまま、ほの赤い闇の中へと消える……。

 気温に合わないほど涼しい風が通り抜け、全身の汗が冷たくなる。ぶるりと震えた時、ここが路地で俺は星空を見上げていたんだと気付かされた。まだ鮮明に残る死の体験が心をかきむしり、叫んでどこかへ駆け出したい衝動を生むが、それをぐっと堪えてあの身に起きた出来事を見詰める。
 そう、あれは自殺なんかじゃなかった。事故だったんだ。あの蝶が彼女を殺したんだ。彼女の目で見ていたからわかる、普段ならば到底起こりえない事故だけど、疲れ切った瞳にあの蝶は例えようもなく幻惑的で、蠱惑的であったから、あんな事に。
 もう一度、身震いが起こった。そうしてこわごわと周囲を見回す。もういないはずだ、いつもあの体験の後にはいなくなっているからきっといない、そんな期待をしつつも、どこかいるに違いないという確信で。右にはいない、左にもいない、上にも下にも、前にも後ろにもいない。安心して溜息をつき、口元が緩みながらもう一度念のためにと右を見る。……いた。
 月明かり、星明りがカラスアゲハをより蠱惑的に彩り、心を乱す。ゆらゆらと挑発するように舞うビロード状の模様が踊りこの薄衣のようで、目を離さない。そうしてじっと見ていると、俺もこの蝶を手にしたい、この手に収めて自分だけのものにしたい、そうすればこの退屈な日常から違った理想の日々を手にできるかもしれない、そんな不思議な欲求が急激に湧き上がり、抑え難いものへとなっていく。
 いや待て、何か変だ。
 一歩踏み出そうとしたところで、自分の欲求に強烈なブレーキをかけられたのはそれが普通のカラスアゲハと違い、美しすぎたためかもしれない。さっきの体験でもそうだ、目がくらみ我を忘れるほど美しくなかったら、あんな事にはならなかった。だから、もしかしてこの衝動のまま動いたら何かよからぬ事になるんじゃなかろうか、そんな怖さがある。俺は伸ばしかけた手を名残惜しそうに引っ込め、その汗をズボンで拭うと、未だ目の前を挑発するように飛び続けている蝶から逃げるよう、その場から駆け出した。
 遠く、遠くへ、少しでも遠くへと願いながらその路地を転がるように離れる。走りながら目の端に映る街並みを現実と認識しつつ、胸に抱く想いを受け止めないよう、走る。
 ──!
 耳をつんざくブレーキ音と、衝突の慟哭。轟音の中に息づく無情の鼓動の隙間で、俺は生きている事への実感とその事に対しての運命、恐ろしさを抱いていた。
 振り向けば、さっきまでいた路地に大型トラックが突っ込んでいた。もしもう少し逃げるのが遅れていたら、もしあのまま蝶を手にしようとしていたら、俺は死んでいたかもしれない。あの不思議な体験によって何度か死を感じたけれど、あくまであれは仮のもの。こうしてリアルな死が俺のすぐ側を通った事に、それまで以上の恐怖が津波のように襲いかかる。背骨が氷になったかのように、ぞっとする。
 汗が噴き出し眩暈が視界をぼやけさせる中、俺は見た。潰れたトラックとビルの隙間から、あの蝶がどこか優雅に舞い上がり、そしていずこかへと消えてしまったのを。遠くからサイレンが聞こえてくる。夜風はなおも体を冷たく抱きながら、俺は呆然とそこを見詰め、立ち尽くしていた。


 翌日、翌々日とあの場所へ行ってみたけど、もう蝶はいなかった。星空を見上げても、陽光の中を探してもいない。きっとあれはもう俺の目の前には現れないのかもしれない。そんな願いに近い思いが半ば確信じみてある。
 けれど、きっと今もどこかで誰かを魅了しているに違いない。疲れた人、現状に満足できず鬱屈している人の目の前に現れる死の水先案内人、いや案内蝶として。
 今日もどこかで、サイレンが鳴っている。ほら、今も。