遠いあと一歩

狂人の結晶に戻る

 高校生活は一時間という単位で見れば退屈だけど、一日で見れば楽しく、一年で見れば思い出深い。けれど、一番強いのは今だ。今こうして心躍らせている時間さえあれば、先の心配なんてちっぽけに思える。
 授業を終えて帰宅した俺は自室に入るなりカバンを投げ、学生服を脱ぐ。これから友達とサッカーだ。本当は帰らずそのまま近所のT運動公園でやってもいいけど、以前激しくやり過ぎてズボンを駄目にしてしまったので、母親から学生服でのサッカーは禁じられている。まぁ、俺としても継ぎ接ぎのズボンを学校にはいていきたくないから、逆らったりはしない。
 支度を終え、家を出て公園に向かう途中、幼馴染の小夜に会った。小夜は俺を見るなり、軽い溜息と共に肩を落とす。
「君明、またサッカーに行くの? そろそろ君明のとこでもテストでしょ、ちゃんと勉強した方がいいんじゃない?」
「まぁ、何とかなるだろう。それに、俺はテストなんて細かい事は気にしない主義なんだ」
「テストは大きな事でしょ」
 毎度ながら小夜の小言にはうんざりする。幼馴染とはいえ、こうした小言はうざいったらありゃしない。心配も度が過ぎれば迷惑だ。俺は苦笑しつつ通り抜けようと、一歩前へと踏み出す。
「なぁに、もう諦めたよ。どこがわからないかすらわからず、もうお手上げだしね。先生にそう言ったら、投げられたよ。だからもういいんだ、卒業くらいはできるだろうから、このまま適当にやるよ」
「でも、やるべき事はちゃんとやった方がいいよ。私達ももうすぐ三年になるんだよ、テストだって今までと違って進学や就職にも関わってくるだろうし」
 小夜とは学校が違うけど、高校で組む日程なんてそう差が無い。それによく近況報告をし合うので、互いの事情も筒抜けだ。けれど今、目の前にサッカーを控えている俺にとって小夜の心配はじゃまにしか思えず、眉をひそめるばかりだ。
「それはサッカー終わってから考えるよ。それに俺のテストがどうだろうと、関係無いだろ」
「関係無いかもしれないけど、私は」
「だから、そんな事考える必要無いだろ。お前が俺を気にする必要なんて何も無いんだし、どうでもいいだろ。自分の事を心配してろよ」
「私の事と同じくらい、君明が心配なの」
 真っ向から見詰め合う二人は一歩も引かず、意地を通そうとする。
「心配してくれるのはありがたいんだが、正直どうでもいいだろ。それに俺達、ただの幼馴染なんだし、そこまで干渉しなくてもいいだろ。何だよまったく、今日は特別噛み付くなぁ」
「……そりゃ、ただの幼馴染なのかもしれないけどさ」
 しまった、言い過ぎたかな。
 拗ねた感じで目線を外した小夜に、君明は焦らずにはいられなかった。世話焼きな性格からつい小言を言う小夜に助けられた事は枚挙に暇は無いが、諦めやすく直情的なところがある君明にとってそれは時に疎ましくなる。けれどそれは決して本心ではないので、ふと我に返った時焦ってしまう。
「あ、いや、言い過ぎた」
「知らない、勝手にすれば。今回ばかりはテスト勉強教えてあげないからね」
 小夜はそのまま怒りながら、急ぎ足で家路を辿っていった。こうしたやり取りはいつもの事だし、そこまで怒る事でもないだろうが、ここ最近は多い。あぁ、きっと何か嫌な事があっての八つ当たりなのかもしれない。だから俺の事なのにあぁも口うるさく言うんだろう。
 そう心中毒づきながら、君明は友人の待つ公園へと駆け出した。

 その夜、八時を過ぎてから小夜が俺の部屋にやってきた。夜になって女の子が男の家へ来るのは多少問題もあるだろうが、互いの家族は俺達が子供の頃からの付き合いなので、心配はほぼまったくしていない。それに俺も小夜相手だと意識する事も無いので、気楽だ。
「それで、何の用だ?」
 話があると言って部屋に入ったきり、小夜は何だか落ち着かなさそうに見慣れているだろう俺の部屋を見回している。いつまでも黙っているので、普段とは違った奇妙な雰囲気を嫌い、やや乱暴だと思いながら話を促す。
「何となく、暇だったから。それより君明、ちゃんと部屋片付けなよ」
「違うって、これは一見散らかって見えるだろうけど、俺が使いやすいように置いてるんだって。だから勝手に片付けられたら、わからなくなるんだ」
「片付けない人ってよくそう言うよね」
「合理的だと言ってくれ。それよりお前はここ最近、いつもいつもやかましいな、どうだっていいじゃないか。あまりうるさいと、モテないぞ」
 ぴくりと小夜の眉が動いた。
「私はやる事ちゃんとやらない人が許せないの。それに、私がモテないって思ってるの、君明くらいなんだから」
「へぇ、誰かいるのか?」
 それきり小夜は微笑とも物憂げともつかない顔で、また黙ってしまった。そんな彼女に何か言いたげな君明も口をつぐみ、ややおどけた感じで軽く笑うと、沈黙に付き合った。
 何でそこで黙るんだよ、変な感じするじゃないか。いるならいる、いないならいないって言ってくれなきゃ、何だかスッキリしないなぁ。それに小夜、いつもと何か違うから、余計調子狂う。
 いつもならば君明の部屋に来れば我が物顔で片付けたり、漫画読んだりするものなのだが、今日の小夜はまるで借りてきた猫の様に大人しい。そのため、迂闊に軽口も叩けず、君明もつい黙ってしまう。
 どのくらいそうしていただろうか、やがて意を決した眼で小夜が君明をしっかり見ると、薄紅色の口を開いた。
「あのね、私、コクられたんだ。同じ学校の男子から、付き合って下さいって。優しくて、真面目で信頼できる人なんだけど……君明はどうしたらいいと思う?」
「どうって……」
「だから、付き合ったらいいかどうか。何て言うんだろ、私の事を一番よく知ってるのって君明だと思うし、君明からしたらどうなのかなって」
 客観的に見て小夜はいい女だと思う。容姿も悪くないし、性格だってややうるさいけど、よく気が利く。だからそういう男が現れても不思議じゃないんだけど、昔から小夜を知っているからどうしても異性として見れず、妙な感じだ。だからと言って、どうしてそんな事を俺に相談するんだろうか。確かに小夜の事なら下手な奴より詳しいけれど、でも俺が付き合うなと言えばそうするのだろうか。それもまた変だ。
「どうも何も、俺が決める事じゃないだろ。俺はそいつの事ほとんどわからないから、止めておけとも付き合えとも言えないし。小夜の好きにすればいいんじゃない?」
「そうなんだけど、でもよくわからなくて」
「俺だってわからないよ。ともかく……幼馴染として言わせてもらうなら、好きにすればって事だ」
「じゃあ……ううん、何でもない」
 小夜はじっと君明を三秒間見詰める。その顔はどこか期待と諦めの入り混じった複雑なもので、君明の心を締め付ける。
「そうだよね、結局自分の問題だもんね。うん、ありがとう。何だかつまらない事でお邪魔しちゃってごめんね、そろそろ帰るわ」
 どこか落ち込みがちな小夜を見送ると、俺は人知れず溜息をついた。正直あれだけの情報じゃ上手いアドバイスできないとはいえ、もう少し何かなかったのかと軽い自己嫌悪。折角頼ってきてくれたのに、自分で決めろはないよなぁ。
 でも、他にどんな言い方があったろうか。どうするにせよ、小夜の問題である以上俺がでしゃばる事じゃない。それに幾ら仲が良いと言っても、所詮俺と小夜は幼馴染。昔から知ってると言うだけで、別になんて事は無い。そう、何も無いんだ。
 なのに、何でこんなにも考えちゃうんだろう。
 一人静かになった自室で君明は我に返ったように天井を見上げ、右手を額に添えると自嘲気味な笑顔を浮かべた。
 どうだっていいじゃないか。俺が思い悩む必要なんて無い、小夜が解決するものだ。そうだ、あいつの心配より俺に彼女いないのを心配すべきだ。あいつは言い寄られ、選別できる立場なんだからどうだっていい。
 けど、何だろう。何でこんなに苛立っているんだろうか……?

 翌日、何だかよく眠れないまま君明は学校へ行った。授業中に寝ればいいと思っていたのだが、寝ようとしたら小夜の言葉と顔をしばしば思い出してしまい、寝られないまま時が過ぎた。意識するまい、するまいと思いつつどうしても考えてしまう自分に多少呆れつつ、一方でそうまで考えてしまうのは何故なのかと不思議でもあった。
 授業を終え、いつもなら心弾むホームルーム後も今日は心にもやがかかったままで、重い足取りのまま家路に着く。いつものようにサッカーでもしないかと誘われたが、今日はそんな気分じゃない。かと言って、家でじっとしていられそうにもないのだが。
「何だってこんなにイライラするんだか」
 もちろん、昨日の小夜が原因だとわかっているけど、さて何故こうもイラついてるのかがわからない。勝手にすればいい。そう言った昨日の俺は嘘だったのか。ならば、本当はどうしたかったのだろう。
「あ、小夜」
 ふと向こう側の歩道に帰宅途中の小夜を見かけたが、俺はついと視線を外し、顔をふせながら踵を返した。本当は声をかけて昨日の事をもう少し聞きたかったのだが、できなかった。小夜は何人かの友達と一緒だったし、その中で一人の男と笑顔のまま親しげにしていたからだ。
 あれがコクってきた奴なのかな、もう付き合うって返事したんだろうか。
 そんな事が頭に浮かぶなり、俺は見付からないよう小道へ逃げていた。もし小夜に見付かって声でもかけられようものなら、とても落ち着いてなんていられなかっただろうから。パニックになって、みっともなく慌てふためいてしまっただろうから。
 そんな自分の弱さと同時に改めて知った小夜の別の顔。俺の心はこれ以上無いくらいに悶え、呻いていた。
「くそっ、何だってんだ一体。何で俺がこんな事しなきゃならないんだ」
 帰宅するなり君明は乱暴に階段を上り、自室に入る。カバンを放り投げ、上着のボタンを全て外すとベッドに寝転ぶ。最初は大の字になり憎々しげに天井を見ていたが、やがてかきむしる様に手で顔を覆い、舌打ちする。
 小夜は単なる幼馴染、それ以下でも以上でもない……はず。単に昔から知っていると言うだけで、あれこれ深い所を言い合う程の仲ではない。そりゃお互いの好き嫌いは熟知しているし、手を取り合って喜んだ事もつまらない事でいがみ合った事もある。だけど基本的に親しい間柄であっても、恋人の様にくっついたりしない。良い関係なんだけど、それはある種家族みたいな関係なんだ。
 だから、好きにすればいい。勝手にすればいいんだ。それでいいじゃないか。お互い、いずれ良い人を見付けて恋愛し、結婚し、家庭を築いていくだろう。そこに幼馴染なんて足枷は必要無い。幼馴染なんてものは一つの要素にしか過ぎず、絶対じゃないんだ。
 細く長く君明は溜息を吐き出す。それはどこかしら諦めとも覚悟ともつくもので、ある種の決意が感じられる。
「好きなのかも」
 何気なくぽつりと呟いてみたが、途端に何だか心のもやが晴れたかのような感覚が全身に広がり、楽になれた。やや戸惑ってみたが、もう一度何かを確かにするため、心に浮かんだものを口にしてみる。
「俺、小夜の事が好きなのかも」
 すると、さっきよりも鮮明に自分の気持ちが見えてきたような気がした。
「好きなんだろうな」
 言葉にすればわかる。逃げてきたのだろう、今まで俺は。異性として見ていたかったが、もしそうしてしまうと良い関係が壊れてしまい、気軽に話せなくなってしまうかもしれないと怖がっていた。成功を見詰めて前に進むより、失敗の恐ろしさの方が実感できていたから。だから、時折湧き上がる感情を無視して小夜の傍にいた。
 そろそろ逃げず、自分の気持ちとしっかり向き合うべきなんだろう。このままでいても、いずれ破綻してしまう。互いに納得しないで、離れていってしまう。そんなのごめんだ、振り返って悔しくなる思い出なんて増やしたくない。
 顔を覆っていた手を勢い良くベッドに叩き付け、跳ね起きるなり、君明は携帯を手に取った。そして小夜の番号にかけようとした時、ふと手が止まる。数十秒の沈黙。しかし意を決して力強く通話ボタンを押すと、すぐ耳にあてた。無機質に鳴り響くコール音が君明の心根をかきむしる。
「もしもし、どうしたの君明?」
 十回に届かないコールの後、小夜の声が耳に響いた。同時に安心と不安と恐怖、そして幾らかの期待が胸を駆け巡る。
「ちょっと今からいいか、話があるんだ。俺の部屋に来れるか?」
 遠回りしてはうやむやになったり、怖気付くだろうから単刀直入に切り込む。気の利いた事を二言三言言えればいいのだろうけど、生憎そんな余裕も語彙も無い。
「行くのは別にいいんだけど、話って何? 電話じゃできないの?」
「まぁ、な。ともかく、何時頃に来れる?」
「今家だから、もう十分もあれば行けるよ。それじゃ、支度してから向かうね」
 通話を終えると大きな溜息と共に、手の汗をズボンで拭った。後は待って、全てを伝えるだけ。好きだと伝えるだけだ。けれどどうしてこんな、緊張してしまうんだろう。小夜相手なのに怖くて怖くてたまらない、不安で不安でしょうがない。それを和らげてくれるのはこの世でただ一人、しかし今から俺はそいつに挑もうとしている。
 チラチラと窓の外を覗いていると、小夜の姿が見えたので慌てて窓際から離れ、何となし手近にあった漫画を手に取り、寝転んだ。間も無く玄関のチャイムが鳴り、さも今気付いたかの様に急いで玄関へと赴く。無意味で虚しい一人芝居とわかっているけれど、こうでもしないと平静を装えない。
「よぅ、いらっしゃい。上がってくれよ」
「珍しいね、君明が出迎えてくれるだなんて。ともかく、お邪魔します」
 小夜を部屋に通すと俺はベッドに、小夜は本棚を背に床へ腰を下ろした。訝しそうに、でもどこか不安げに見詰めてくる小夜と目を合わせていると、じわじわと怖気付いてくる。この関係を壊してまでも、新しい関係は魅力あるものなのか。成功と失敗の両天秤にかけた時、さっきまで成功の方になると信じていたのに、急に失敗側へと傾き出している。
 言えるうちに言ってしまえ、長引かせると不利にしかならない。怖いだろうが、やるしかない。もう後には引けないんだ。それに、やった後は思ったより大した事なんて無いんだ、言うんだ。言うぞ。言うぞ。
 小さくも力強い呼吸が一つ、君明の口から吐き出された。
「呼び出したのは直接言いたい事があったからなんだ、だからちゃんと聞いて欲しい」
 小夜の顔も君明の雰囲気を察してか神妙になり、無言で頷く。
「俺、小夜の事が好きなんだ」
「私も君明の事が好きだよ」
 あまりにさらりと返されたため、俺は拍子抜けしてしまい、やや慌てて身を乗り出した。
「いや、好きってのはその、幼馴染としてではなくて、小夜を一人の女としてだ」
 すっと小夜の頬に紅が彩られ、小さくうつむく。
「そうだよ、私もそのつもりの好きだよ」
 最後まで聞き終わらないうちに俺の中で喜びが爆発し、軽く痺れた。安心と喜びが縦横無尽に駆け巡り、思わず笑顔になっていく。やった、小夜は俺の気持ちを受け入れてくれたんだ、もう幼馴染なんてあいまいな関係からあいつを見ずに済むんだ。
 けれどふと、喜びの中で昨日の小夜の言葉が浮かび上がってきた。
「ところでお前、同じ学校の男にコクられたんだよな。あれはどうなったんだ?」
「あれね……嘘なんだ」
「なんだって」
 目を丸くする君明に小夜が赤い顔で見詰め、口を尖らせる。
「君明が悪いんだよ、私の気持ちにちゃんと気付いてくれないから。もう何年も前からこっちは意識してたのに、そんな素振りを見せてくれないんだもん。だから、つい。あぁ言ったら何か言ってくれるかな、引き止めてくれるかなと思ってたけど、あんな事言うから私……本当にもうどうしていいかわからなくて、ずっとずっと、悩んでたんだよ……」
 最後は完全に涙声となり、手の甲で目元を拭う小夜。そんな彼女の頭をじゃれ合うように叩くと、君明はやや皮肉っぽく笑った。
「嘘なんかつくなよ、まったく。あのな、幾ら俺だって好きと言われたらもっと前から分かり合えていたよ。その、俺ばかりに言わせるなよな、ずるいよ」
「ごめんね」
「それに、もう泣くなよ。顔腫れてブサイクになるぞ」
「うるさいわね、君明がそうさせたくせに。こういう女心わかってくれないから、泣いてるのにさ」
 徐々に笑顔を取り戻す小夜を見て、俺はこれから新しい人生が広がっているような気がした。遠かったあと一歩、でも今はそこに立っている。そしてその先は二人で歩めばいい。近かったけど別々の道を歩いていた俺達はもう重なり、先は一本となっているのだから。
 なんて考えていると、小夜に軽く頭を叩かれた。
「いてっ、何だよ」
「さっきのお返し、軽くでも叩いたでしょ。ほんと、彼女には優しくしてよね」
 優しく、ねぇ。
「じゃあ、俺がお前にキスしたら?」
「当然、仕返すよ」
 真っ赤になって答える小夜にキスしてみると、少し離れて微笑みを交わした後、ぎこちなくも甘いキス返された。