明日を繋ぐ選択

狂人の結晶に戻る

 溜め息しか出てこなかった。右を向けど左を向けど、赤い岩山と砂漠。砂漠と言っても砂ばかりと言うわけではなく、僅かな木や草が生えているものの、おおよそ不毛の荒野と言っても差し支えないだろう。周囲に民家や施設は見当たらない。
 天を仰げば雲一つ無い晴天。しかし清々しいと言うよりは、大地にいるものを焼き尽くそうとしている様相で、ギラつく太陽はさながら悪魔の瞳とでも言ったところだろうか。凄まじい熱気に少しでも気を許してしまえば、足元にある干からびたネズミみたくなってしまうだろう。
「このままじゃマズイな、本当にミイラになっちまうぞ、おい」
「でも先輩、車はもうどうしようもないですし、歩いて戻るにしても町まで何百キロあるかわかりませんよ。それに、もう道路がどの方角かもわからなくなっちゃいましたし」
 国原憲文はうなだれながら溜め息と共にそう吐き出すと、柳野晴人もまたうなだれた。
 ここはオーストラリア中央部の荒野。二人は会社の先輩後輩の間柄であり、冬の長期休暇を利用して、初の海外にとオーストラリアを選んだのだった。最初はハワイやフィジーなど常夏の楽園でのんびりバカンスをと考えたのだが、映画の影響などもありここにしようと土壇場で決め、出発。二日目まではビーチで遊んでいたのだが、折角なのでレンタカーでも借り、雄大な自然に触れてみようと当ても無く出発したのだった。
 しかし、二人の想像を超えてオーストラリアの自然は雄大だった、雄大すぎた。日本の道路と違って果てしなく続き、かつ渋滞に縁の無いオーストラリアの道路で速度を気にせず飛ばしていると気分もハイになり、より自然と触れ合おうと車道を飛び出し、道も標識も無い広野へと飛び出した。窓から差し込む日光は肌を焦がし、整地されていない荒地にひどく揺らされたが、それがかえって二人がいつしか忘れていた冒険心を燃え上がらせ、思いのままに走らせた。これぞ自然、これぞ男、これぞオーストラリアと。
 その時は突然訪れた。レンタカーがオフロード仕様でなかったからか、はたまたこの炎天下にエンジン全開で走っていたからか、激しい震動一つ起こし、車が止まってしまったのだ。止まった所は四方全て何も無い、無人の荒野。それと同時に我に返ると、突きつけられた現実はあまりにも非情だった。エンジンが壊れたためにクーラーも動かず、水も互いの飲みかけのペットボトルと、開封していない予備のが三本。食料も菓子パン二つだけ。助けを求めに行く事もできず、柳野と国原はただじっと車の陰に隠れて誰か来ないかと待っているのだが、既に丸一日経っている。体力は限界に達していた。
「甘く見過ぎていたな、自然を。まさかこうなるとは、考えていなかったよ」
「そうですね。でも僕達がいなくなってから一日経っているわけですから、捜索隊とかそう言うのが向かっている可能性もあるんじゃないですかね」
「日本で家族が捜索願を出すのと違って、俺達は外国からの旅行者だぞ。そんなにすぐに出るわけが無いって。それにレンタカー屋のオッサンにエアーズロックを見に行くと言っているけど、ここは道も見えない荒野だ。難しいんじゃないかな、救助は」
「じゃあ俺達、このままここで死ぬんですかね。陽を遮るものも無いみたいですから夜に歩いても、次の日の昼前にどこか着けそうに無いですし、もう何十キロも歩く体力なんて残っていませんよ、俺は。いや、何十キロどころか、五キロも歩いたら倒れますね」
 国原の言葉に、柳野の口も自嘲気味に歪む。
「俺だってそうだよ。あぁ、さっきから眩暈がしてどうしようもない、脱水症状だ」
 柳野はペットボトルに残っていたのをぐいと全て飲み干した。少し遅れて国原も続く。本当は舐める様にちびりちびり飲むのが後々のためなのかもしれないが、もうそんな余裕など無い。残りは三本。一本ずつ未開封のそれを手にすると、同時にうなだれた。
「はぁ、こんな事になるんだったら悔いの残らないよう、弓岡さんに告白でもしておけば良かった。今頃彼女、どうしているのかな。実家にでも帰っているんでしょうかね」
「お前も弓岡さん、狙っていたのか?」
「お前もって、先輩もですか?」
 驚いた顔を向き合わせるなり、二人はすぐ笑い声をあげた。一体いつ以来だろうか、こうして大声で笑ったのは。昨日と言う過去が何十年も前の様に思えて仕方ない。
「いい女だよな、弓岡さん。顔も体もそこそこだし、性格も良いけれど、何より頭が良いのに惹かれたね。仕事がすごくできるとかそう言うのじゃなくて、切り替えしが上手いんだよな。場を読むのに長けているというか、ユーモアがあると言うか」
「そうですね。でも俺はやっぱり、あんな感じの顔立ちがタイプなんですよ。おまけに料理も上手いでしょ。ほら、前にみんなで海に行った時、弁当作ってきてくれたじゃないですか。やっぱり料理のできる人は最高だなって思いましたね、あの時」
「海か……また行きたいな。と言うよりも、今行きたいよ。この暑さから逃れたい」
 飲めばすぐに吹き出た汗も、既に乾いてしまっている。体が熱くてたまらない。けれど欲求のままに水を飲み干してしまっては夜までもたないのはわかっているので、ギリギリまで堪える。何気無く地面に手を触れると、水気の無い様に未来を感じ、ぞっとした。

 日が傾き、暑さも大分落ち着いてきたけれど、もう二人の体力は限界に達していた。割り当てられたペットボトルは互いに飲みきり、残るは最後の五百ミリリットルの水が一本あるだけだ。これで最後だからと耐えられるところまで耐えようと決めていたけど、もう無理だ。倒れたままひどく気だるそうに柳野が国原を見遣ると、車を叩く。
「このままだと、二人ともいずれ死んでしまう。だからもう、飲んでしまおう」
「そうですね。もう目もかすんで、意識を保つのがやっとですから、早く飲みましょう」
 国原も地べたに寝転がったまま、車を叩く。寂しい荒野に僅かにも響かず、音が消える。
「ただ、問題がある。俺達はもう立つ事すら満足に出来ない。だからきっと、一人で水を取りに行ったら誘惑に負けて、一人で飲むだろう。だから、二人で取りに行こう。それならば互いに疑いも生じないだろうさ。ほら、立て。わかったなら行くぞ、国原」
 まだ熱のこもっている車にしがみつきながら二人は立ち上がると、並んで後部座席に置いてあったペットボトルをまず柳野が手にし、そうして国原にも握らせた。かなり熱くなっており、喉を鳴らして飲む事は難しいだろうが、それでもこれは命の水。大事そうに、かつ相手に奪われないようにして、元の位置に戻ると二人は背を車に凭れかけた。
「さて、これをどうするかだよな。半分に分けるってのが妥当なのかもしれないが、どう平等に半分にできるだろうか。半分ずつ飲むなんて、きっとできない。一度口に水を含めば、我を忘れて飲むだろう。空いたペットボトルに半分移すにしても、元気な時だってこぼしたりするのに、こんなに朦朧とした状態で成功するわけが無い。かと言ってどちらかが一本そのまま飲むなんて、そんな事は許されない。飲めなかった方はどうせ死ぬから道連れとばかりに、殺そうとするだろう。また助かったにせよ、ひどく後味悪いはずだ」
「だからと言って、飲まないなんて選択肢は無しですよ。もし救助が来なくて死ぬにせよ、水を飲みたい。それに飲めば、救助が来るまで生きていたいと思えるでしょう」
「そうだ、どちらにせよ水は飲みたい。だが今の俺達には均等に分ける術が無い。だからある程度の不平等はしょうがないとしよう。そこで、この水を交互に飲む事にしようと俺は提案する。交互にと言っても、どちらが先に半分飲むかって事だな。何か意見は?」
「それでいいと思いますよ。もうそれより他に考え付きませんし、飲めるのならば何でもいいです。ただもう、早く飲みたい、飲みたくて他の事は考えられません。それで先輩、どっちが先に飲むんですか?」
「それはお前が決めていいぞ」
 国原は驚いた、立ち上がる事すら困難になっているにもかかわらず、飛び上がらんばかりに驚いた。それもそうだ、自分のばかりか柳野の命を渡されたと言っても過言ではないからだ。同時に今の今まである程度は冷静だと思っていたのに、思ったよりも昏迷しているんだと改めて自覚したものだった。
 それと言うのも、現状はどちらも衰弱しているから、先に水を飲んだ方が生気が戻る。そうなれば水を独り占めしようと、案外簡単に組み伏せられるだろう。ならば先輩には悪いけど、先に飲んでしまおう。そうして組み伏せてから、全部飲んでしまえばいい。何とかして生きて帰り、もう一度弓岡さんを見たい。そのため、生きるのに全力を尽くす。誰だって死にたくないし、こういう場で見殺しにしても罪にならないはずだ。
「そうだ、どっちを選んでもいいよう、これも置いておくか」
 そう言うと柳野はペットボトルの近くにサバイバルナイフを置いた。
「どちらかが多く飲んだり、全部飲みそうだと思ったら、好きにしてもいいようにな。それじゃなければ、誰だって先を選んで全て飲みきってしまうだろう。それはいささか不公平かもしれない。だからこれを置いておこうと思う、無論どうするかも自由だ」
「待って下さい。確かに先輩の言う事も一理ありますが、何もこんな殺し合いが前提みたいに話を進めなくても。二人一緒に生きて帰りましょうよ、日本の土をもう一度一緒に踏みましょうよ。それなのに、何で……」
「国原、もちろん俺だってそうしたいよ。だがな、こう言う状況だからこそ悔いが残らないと言ったら変だが、不公平の無いようにしておきたいんだ。この選択には命がかかっているわけだからな。また、どうせ死ぬにせよお前が言ったように水は飲みたいからな、全て飲まれた挙句に思いも果たせないなんて、死ぬに死に切れないだろう」
「でも、どうして俺が決めてもいいんですか。こんな大事な選択、どうして俺なんですか? 先輩だって同じようなものじゃないですか」
 ほとんど残っていない体力を魂に乗せて、国原が柳野を見遣る。柳野はすっかり乾いた唇を痛々しげに歪めると、ペットボトルと国原を一瞥し、大きく息を吐いた。
「俺はお前よりも多く水分を取っているからだよ。出発の時、お前より多く飲み物を買って飲んでいたし、さっきも最後の一本を俺が後に飲み終わっているからな。だからお前よりも俺は耐えられるだろうけど、逆にお前は厳しいんじゃないか。仮に俺が先だとしても、俺はすぐに飲まないかもしれない。もう少しヤバくなるまで、我慢するかもしれないじゃないか。それはお前にとって不利だ、だから先に選ばせてやるよと言っているんだ」
「あ、ありがとうございます。そこまで言うのなら、わかりました。決めます」
 しかし、国原はそれきり黙り込んでしまった。最初に飲めば渇きも癒え、心にも体にも力が戻るだろう。けれど、半分で飲むのをやめられるだろうかと言えば、限りなく難しいだろう。今の自分は三日も四日も寝ていない状態に等しい。それなのに三十分だけ寝てもいい、だがそれ以上寝たら殺すと言われている様なものだ。それに、先に潤いを知れば後が辛い。そう考え、国原が肺に溜まった埃っぽい息を吐き出す。唇を舐めるも、硬いまま。
 かと言って後から飲むとなると、どうしても先に全て飲まれる恐れがある。もしそうなったら、俺はどうする。そこにあるナイフで先輩を殺せるだろうか。半分以上飲んだ先輩を、本当に刺し殺せるのだろうか、俺は。考えている今はきっとできないだろうが、実際に目の当たりにすれば突発的にやるかもしれない。極限状態の理性など、そんなものだ。しかし、もしそれで生き残ったとしても、俺はその後の生活を上手く送れるだろうか。人殺しをしてまで生き残ったと言う罪悪感に、果たして耐えられるだろうか。……きっと無理だ。もしそうなれば、多分俺は自殺するだろう。
 ではそうだからと、水を諦める気になんてなれない。どうせ死ぬにせよ、もう忘れかけている潤いを思い出したいし、飲めばそれだけ生き残る確率も上がる。日本にいて仕事に追われる毎日を送っていた時は死にたいと考える時もしばしばあったが、こうまで生きたいと思った事はほとんど無い。生きていても必ず幸せになれる保証など、どこにも無い。けれども、幸せになれるかもしれないチャンスはあるわけだ。捨てたくないと、今思う。
 どちらにしようか。どちらにせよ、殺される恐れはあるし、その逆もある。殺すか殺されるかを天秤にかけた時、僅かに殺される方がいいかもしれないと思えた。飲まれても、殺すなんて出来ない。それ以上に殺されるなんて嫌だ。ならば後に飲もう、信じよう。
「先輩、決めました。僕は後に飲みます。だから先輩が先に半分飲んでもいいです」
「そうか、わかった。ならば遠慮無く最初にもらおうか。あぁ、ようやく飲める」
 ほとんど生気が失われつつある顔だけど、柳野は心底嬉しそうな顔でペットボトルに手を伸ばす。水と言うよりはぬるま湯のそれをかけがえのない宝物の様に二度撫でると、重い体を起こし、キャップに手をかけた。普段ならば難なく開けられるそれも、死に物狂いの抵抗をし、嬉しさから来るもどかしさに柳野の顔も強張る。けれど生への欲求が抵抗に勝り、繋ぎ目が切れると同時にすんなりと開封された。柳野は顔を綻ばせる。
「ちょ、ちょっと待って下さい。飲むの待って下さい、もう一度考えさせて下さい」
 一転して、柳野の顔が厳しくなり、国原を睥睨する。ただ、まだ口はつけていない・
「何だよ、さっき決めたんじゃなかったのか。お前、今がどんな状況かわかっているのかよ。お前も厳しいだろうが、俺だって生きるか死ぬかの瀬戸際なんだぞ」
「本当にすみません。これで最後にしますから、もう一度考えさせて下さい。頼みます」
「……これで最後だぞ、わかったな。次に決めたものは二度と取り消させないからな」
 再び固く封をすると、柳野はやるせなさそうに二人の間に投げ捨て、車に背凭れた。
 やはり、最初に飲まれるのは恐ろしい。目の前で飲まれたら、発狂しかねない。最初に飲む方が安全だ、飲んでしまえばこっちのもの。刺されるかどうかはある種の賭けだが、飲む飲まないはそれ以前の問題だ。先に飲もう、まずそうしてしまおう。
 いや、待てよ、よく考えろ。飲んでいる最中は無防備だ、特に初めの一口は完全に上を向いてしまう。もしそこで刺されたらどうなるだろうか。一口二口飲んだところで殺され、残りを全て飲まれるかもしれない。あぁ、疑う事などしたくないが、頭から離れない。
「どうした、早くしてくれよ。俺だってそう待てるわけじゃないんだからな」
 どうしよう、早く決めないと自分にも先輩にも死神が近寄ってくる。先にしようか、後にしようか。どちらも魅力的だし、またどちらも危ない。先に飲むのに必要なのは自制心、後に飲むのに必要なのは信頼。俺は果たしてそのどちらをより強く抱いているのだろうか、どれだけの勇気を持ち合わせているのだろうか。
 先程は自分だけが生き残るため先に飲みたいと考えたが、こうなると一緒に生きて帰りたく思う。やはりどちらか一人だけと言うのはいけないし、これまで一緒にやってきた人だ、いなくなれば寂しい。もう喉だけじゃなく、体が乾いて仕方ない。気力も体力も理性も、既に限界だ。もしかしたら、もう失われているかもしれない。だがそれでも、命の選択をしなければならない。どっちだ、どっちが悔いを残さない決断となる。どっちが正しいんだ。どっちが生きる可能性があるんだ……。

 翌日、メルボルンのとある病院の一室に、大勢の記者が押し寄せていた。看護婦や医師は騒がしくなるのを怖れ、患者の容態を理由に面会謝絶にしようとしたが、患者自身が取材に応じたため、途絶える事無く誰かが訪れている。今も一人の記者がメモを取っていた。
「日本とは違った広大な自然に迷い込み、水も食料も驚くほど少なかったにもかかわらず、生きる事ができた心境をお聞かせ下さい。やはり死を覚悟しましたか?」
「えぇ、何度も考えましたね。でも最後まで生きようと思えたから、今があるんです」
「なるほど。しかしそれにしても、御友人が亡くなったのはショックでしょう。聞けば会社の同僚と言う以上に、友人として付き合っていたとお聞きしましたが」
「そうですね、それについては非常に残念でなりません。もし叶うならば、二人でこうした取材を受けたかったものですが、惜しくも叶わなかった事だけが心残りですね」
「では、貴方と彼の一体何が違っていたから、命運を分けたと思いますか?」
 やや考えるようにうつむき、男は気付かれないようにくすりと笑う。僅かに震える肩は、傍から見れば悲しみでそうなっているかの様だ。しばしそのまま沈黙が続いたが、大きな咳払いを一つすると顔を上げた。その眼差しに、記者も思わず息を呑む。
「決断力、ですかね。国原の方が弱っていたので先に飲むかどうか決めさせたんですけど、結局考えているうちに干からびてしまったんですよ。僕も朦朧としていましたから、彼がそうなっていると気付かず、もしかしてと思った時には既に手遅れで……。呼んだり何だりしましたけど、もう駄目でしたね。なので彼が残してくれた水を大切に飲み、今日まで何とか生きる事ができました。彼の分まで生きるのが、何よりの供養だと思います」
「そうですか、ご心痛お察しします。でしたらこれからが大変ですね、お葬式とか」
「あぁ、それは大丈夫ですよ。僕は彼の葬式には出ないつもりですからね」
「それはまた、どうしてですか?」
「いずれ会えるからね。今会って悲しい顔を見せるより、いつか直接水を届けるよ」
 そう言うなり柳野は記者の言葉を遮り、ベッドに沈んだ。その悲しげだが、どこか穏やかで達成感溢れる笑顔に映えたのは、潤んだ唇だった。